インターネットがヒエラルキーをなくす
はじめに
久しぶりに『いじめ』について記事を書きます。 まあ、『いじめ』という言葉を出してないだけで、関連する記事は最近も書いていたつもりですけど。
以前投稿した記事「閉鎖空間がいじめを生む」では、制限のかかった生活空間が、生存優先順位というヒエラルキーを生み、いじめのトリガーになりうるという仮説を立てました。
また、人類がここまで繁栄してしまった以上、ヒエラルキーが不要なほどの広い生活空間を確保することは難しいとも言及しました。
今回もこの仮説を前提に話を進めていきたいと思います。 今回の記事ではインターネット上の誹謗中傷に焦点を当てたいと思います。
今回の仮説
今回の仮説は、インターネット上には誹謗中傷の温床となる閉鎖空間が存在する一方で、インターネットは
ヒエラルキーを生まないほどの広い生活空間を実現できる
最終的な仮説としてはこちらを置いていますが、まずは「なぜ、ネット上の誹謗中傷は激化しやすいのか」という疑問について考えていきます。
匿名性廃止の効果は薄い
『炎上』という言葉があるように、インターネットは誹謗中傷が激化しやすい環境であるとされています。 その理由の一つとして匿名性が挙げられることがあります。 芸能人やアスリートなど有名人のほうが話題になりがちなので、そう思われるのも自然なのかなと思います。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、実は「匿名性の廃止」による誹謗中傷の減少の効果は小さいと言われています。
というのも、実際に韓国で「インターネット実名制」が導入されたことがあります。
結果として掲示板での悪意のある書き込みの割合は導入前の13.9%から導入後13%までに留まりました。
その後憲法違反との判決を受け、実名制は廃止されています。
このことからネット上での誹謗中傷の激化の原因として、匿名性の影響は小さいことがわかります。
このことを知って僕は驚いたんですが、よくよく考えてみると、そもそも実名制であるFacebookがありますし、お互い名前が割れてる現実でもいじめはあるんだから当然と言えば当然ですね。
全人類から否定されたような錯覚
インターネットの誕生によって世界中の人と簡単に情報をやり取りすることができるようになりました。
言い換えると、ネットという仮想空間を利用することで、全人類が一つの集団を形成することに成功してしまったということなのではないでしょうか。
つまり、ネット上で誹謗中傷を受けるということは、全人類から否定されるのと同義になってしまうのです。
僕の仮説ではいじめは閉鎖空間で発生します。
そのため、閉鎖空間内の集団から排除されたとしても、その閉鎖空間の外に出てしまえば集団内のルールから抜け出すことができます。
つまり、閉鎖空間でいじめが発生する以上、現実世界では閉鎖空間の外という逃げ場が必ず存在するはずなのです。
しかし、ネット上で誹謗中傷という排除行為を受けた場合、世の中全体から否定されたことになるため、逃げ場が存在しないのです。
もちろん攻撃しているのは全体のうちのほんの一部です。 ほとんどの人間はコメントしない傍観者です。 しかし、ネット上の傍観者の存在は可視化されていないため、余計に極端な意見のみが目立ってしまいます。 これがネット上の誹謗中傷の激化を促進しているのではないでしょうか。
ネットを使った逆転の発想
ここまではネット上のコミュニケーションにおけるデメリットを取り上げていきました。 世界中の不特定多数の人間から攻撃を受けることの怖さは伝わったでしょうか。
ここで逆転の発想です。 ネット上での情報のやり取りというのは「仮想空間でのコミュニケーション」であると捉えることができます。 ここでいう『仮想空間』とは物理的空間を必要としない疑似的な空間のことです。
例えば『チャットルーム』という言葉がありますが、コミュニケーションをとるための部屋=物理的な空間を必要とせずに、ネットという仮想空間上でコミュニケーションの場を用意することができます。
ネットという仮想空間だからこそ、現実の物理的空間のように広さの制限に囚われず、無限に生活空間を広げ続けることが理論上可能です。
つまり、ネットは誹謗中傷の激化の温床となる閉鎖空間のようで、実は無限大の開放空間を作り、ある集団から排除されようとも絶対的に逃げ場を用意できる可能性を秘めていると言えます。
もちろん、仮想空間内でどのように集団を作り、集団同士のつながりをどう構成していくかは別途考えていく必要があります。
しかし、少なくとも以前の記事で言及した「ヒエラルキーを生まないほどに広い生活空間の確保」を仮想空間により実現できることがわかりました。
これは「いじめをなくす」ための仕組みを考えていくうえで有用性があるのではないでしょうか。
今回の仮説についてのお話は以上です。
最後に
今回はインターネットという仮想空間における危険性といじめを根絶できる潜在的可能性について考えてみました。
今回の記事のテーマについて考えるきっかけとなった、漫画『推しの子』を読んでいたところ、ネット上の好き勝手な発言に対して瑠美衣(るびい)が放った言葉が僕の心にグサッと刺さりました。
【推しの子】|ヤンジャン!|週刊ヤングジャンプの公式マンガアプリ ※この台詞の登場は第10話
ネットという不特定多数の人間が属す集団内では、一人一人の発言の責任が希薄になりがちだと思います。
今一度我々は、画面の向こうには自分と同じ人間がいるということを意識しなければならないのではないでしょうか。
今回のお話は以上です。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。
「責任をとる」とは結果を出すこと
はじめに
今に始まったことじゃないですが、不祥事を起こした有名人に対して「責任をとれ」という世間の声を最近よく耳にします。 そして不祥事を起こした当事者たちは"責任を取って"辞職したり、罰として活動自粛したりします。
こういうニュースを見るたびに僕は「なんで?」って不思議に思います。 「責任をとる」って「罰を受ける」ってことなんでしょうか。 僕は違うと思います。 むしろ辞職や活動自粛は「責任を放棄する」ことと同じだと思います。 今回はそんなお話です。
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は「責任をとる」とは
無責任な人ほど昇進しやすい
企業の昇進と責任に関して「無責任な人ほど昇進しやすい」という研究があります。 business.nikkei.com この記事で紹介されている論文に限らず、「無責任な人ほど昇進しやすい」という傾向は世界中の研究で立証されているそうです。
本来昇進するほど責任が重くなるはずなのに、無責任な方が昇進しやすいって矛盾してますよね。 これは「責任をとる」ことの一般的認識に間違いがあるからだと思います。
もし「責任をとる」=「辞職する」なのであれば、責任を取ってしまうと昇進の道が閉ざされてしまうんだから、「無責任な人ほど昇進しやすい」って当然ですよね。
責任をとるとは結果を出すこと
仮説で述べた内容を繰り返しますが、本来「責任をとる」とは自身の役割を全うすることだと思います。
例えば企業内で不祥事が発生したのなら、役員たちは辞職なんかしてる場合じゃなくて、不祥事によって発生した損失を取り戻すために尽力すべきですよね。 それこそが本来の意味での「責任をとる」ということだと思います。
この記事を書くにあたってググってみたところ、本来の意味での「責任をとる」ことについて、わかりやすく書いてある記事があったので、詳しくはこちらをご参照ください。 manager-life.net
「なんでこうも無責任な人間が上にいるんだ」なんて嘆きながらも、「責任を取って辞職しろ」なんて責任放棄を促すコメントしてる人が多い気がして、このモヤモヤを今回は記事にしてみました。
人はなぜ罰を与えたがるのか
そもそも「責任をとる」ことと「罰を受けること」が混同されやすいのはなぜなのでしょうか。
僕が思うに「責任をとる」という大義名分のもとに、集団のはみ出し者を排除して集団の結束力を高めたいという本能が働いているからだと思います。
この仮説自体は以前の記事でも言及しましたね。
zeppekikun.hatenablog.com
要は「責任をとれ」と、さも正論を述べているように見せているだけで、原理はいじめと同じなんだと思います。 世論という大きな集団の中のはみ出し者を発見したので、集団の結束を高めるためにはみ出し者を排除しようとしているのです。
今回のお話は問題提起に留まりましたが、この「集団の結束を高めたいあまりに、集団内の個体の多様性を否定して攻撃的になる」という人間の本能をどう上手く扱っていくか、これからも考えていきたいと思います。
本来あるべき組織の構成についても今後考えていけたらと思います。
今回のお話は以上です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
漫画『せんせいのお人形』のすすめ
はじめに
今回の記事では漫画『せんせいのお人形』の紹介をさせていただきます。 ブログ概要にも書いてますが、本ブログのタイトル『世界のぜんぶが書いてある本、ない?』は『せんせいのお人形』の作中のセリフです。
この作品をきっかけに「自分が本当にやりたいこと」に気づき、その一環として本ブログを立ち上げました。 僕という人間の価値観に多大な影響を与えてくれた、だいすきな漫画の一つです。
かねてより書きたかった記事ですが、2020年11月27日に第4巻が無事に発売されましたので、いいタイミングだと思い、今回書かせていただきます。
ネタバレは極力抑えるように心がけますが、先入観なしに読みたい方は漫画アプリcomicoにて全話無料(CM視聴等の制限あり)で読むことができますので是非! www.comico.jp
また、執筆現在4巻発売直後のため発売記念として以下の各種電子書籍サイトでも第1巻まるごと試し読みできますので、とりあえず第1巻だけ読みたいという方はこちらでご一読ください。
ちなみに、第4巻発売を記念して
— せんせいのお人形(公式)@電子書籍で全8巻発売中💐 (@sensei_oningyo) 2020年11月27日
『#せんせいのお人形』第1巻
無料キャンペーンも開催中!
BookLive!
BOOK☆WALKER
コミックシーモア
honto
などなど、主要書店にてまるっと1巻無料で読めちゃいます✨
実施の有無や開催期間の詳細などは、各書店にてご確認くださいね( ✧Д✧)要チェックや! pic.twitter.com/K9MoLEbDUZ
↓↓↓以降ネタバレ含みます↓↓↓
『せんせいのお人形』というタイトルについて
このタイトルを見てホラーやアダルトなものを想像される方がいらっしゃるそうです。 確かにタイトルだけだとそう捉えてしまう可能性も否めませんが、読んでみると「このタイトルしかありえない!」と僕は思いました。 あくまで僕の解釈ですが説明させていただきます。
本作『せんせいのお人形』のタイトルの意味は
この説明からわかる通り、主人公は 私=スミカ と せんせい=照明さんの2人となります。 タイトルの『せんせい』が『先生』ではなく、ひらがなが使われているのは照明さんの職業が高校教師であり、『教師』としての『先生』に限定する言葉ではないため、「せんせい」とひらがな表記されているのだと思います。
あらすじ
さすがにタイトルの説明だけだと、具体的な物語の流れが全く分からないと思うので、comicoの公式ページのあらすじを参考にあらすじを軽く説明させていただきます。
身寄りがなく親戚中をたらい回しにされていた女子高校生・スミカは、高校教師である照明に引き取られることになった。 礼儀作法どころか基礎的な生活習慣すら身についていないスミカを見て、照明はスミカに宣言する。
以上が第1話のあらすじとなります。
教育とは、学ぶとは何なのか
本作の魅力はいくらでもあるんですが、一つだけ紹介させてください。
スミカは照明さんとの出会いを発端に、自分の外に世界があることを知ります。 そして自身の世界を広げ、自分の道を歩み始めます。 もちろんスミカにとって照明さんは外の世界の存在を教えてくれた『せんせい』なのですが、照明さんを含めた周囲の人々もまた、スミカから影響を受けて変わっていきます。 スミカもまた誰かにとっての『せんせい』になりうる存在なのです。
このあたりが如実に表れる場面で本ブログタイトル「世界のぜんぶが書いてある本、ない?」というセリフも登場します。
最初は『人形』と『せんせい』だった二人の関係がどう変化していくのか。 読者はその行く末を見守っていくことになります。
最後に
今回はいつもの仮説を立てる記事ではなく、僕のだいすきな漫画の紹介をさせていただきました。 補足事項として『せんせいのお人形』の既刊情報を載せておきます。
- 本誌サイトcomico:完結済み(全120話 + 特別編)
- 紙書籍:第1~3巻 発売(続巻未定)
- 電子書籍:第1~4巻 発売(最終巻まで発売予定)
そう、実は紙媒体による4巻以降の販売予定は現時点ではございません。 僕の中ではマンガ大賞*1獲れるレベルだと思っているので、「この本が世に広まらないなんてあってはならない、自分にもできることはないか」という思いもあってこの記事を書いています。
僕は現在独身ですが、もし結婚して子供ができたり、誰かを教育する立場になったら『せんせいのお人形』を教科書にしたい、そう思えるような作品です。 僕はこの漫画を生きていくための教科書の一つとして自分の本棚に添えたいんです。
漫画の紹介記事を書いたのは初めてで、そもそもブログ自体始めたばかりで、うまく魅力が伝えられたでしょうか。 自分がだいすきなものについて話すときほど、自分自身の価値が評価されるようですごく怖いです...。 少しでも読んでみたいと思ってもらえたらうれしいです。
今回のお話は以上です。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
優柔不断な人は懐が深い
はじめに
以前書いた記事の中で、「判断材料となる情報が多すぎると人は決断できなくなる」と言及しました。 zeppekikun.hatenablog.com
この「決断しなければならないのに、なかなかできない」状態って、傍から見ると優柔不断な人に見えるのかなと思います。 僕も決断を下すまでに時間を要することが多いので、優柔不断な方だと思います。
優柔不断って一般的に悪い意味で使われることが多いですが、実はすごくいい側面もあるんじゃないかと気づいたので、今回お話しさせていただきます。
今回の仮説
今回の仮説は、優柔不断な人とは
優柔不断な人
僕の身近に僕の目から見て「優柔不断だなあ」と思う人Aさんがいます。 Aさんは外食のメニューを選ぶとき、洋服屋さんで服を選ぶとき、すごく時間をかけて吟味します。 僕も同じく結構迷っちゃうタイプで気持ちがわかるので、時間かけて考えてもらっても大丈夫なんですが、本人は自身の優柔不断なところを気にしているようです。
一方でAさんの周りにはいつも人が集まってるように思います。 Aさんとおしゃべりしたくていろんな人がやってきます。 お菓子を持ってきて餌付けしてくる人もいるぐらいです。
その様子を見てて僕は思いました。 「優柔不断である」ということは「物事をいろんな角度から捉えている」ということなのではないか。 「物事をいろんな角度から捉えている」ということは「いろんな人の視点に立つことができる」ということなのではないか。 そして、「いろんな人の視点に立つことができる」からこそ、「許容範囲が広く、いろんな人を受け入れることができる」のではないか。
そもそも自他共に認める変わり者である僕を受け入れてくれてる時点で、めっちゃ懐深いじゃん...。
決断力がある人
もう一人、僕の知り合いBさんを紹介します。 Aさんとは対極的にBさんはめちゃくちゃ決断が早いです。 僕とAさんが昼食をとる場所を決めかねていると、代わりに即決してくれます(笑)。
Bさんは決断が早いので行動も早いです。 仕事もテキパキとこなします。 まじかっこいい。
Bさんは買い物もめちゃくちゃ早いんですが、よくよく見てみると全く値段を見ずに買い物をしている....! 本人いわく、レジで合計金額を知ってから「あれ、何が高かったんだろう?」て思ったりするらしいです。
僕が思うにBさんの決断の早さは情報量の遮断にあると思います。 Bさんは買い物の際に「ほしいか、ほしくないか」だけに判断材料を絞ることで決断速度を上げているんだと思います。 そんなBさんは結構金欠になりがちですが、「欲しいものを手に入れる」という一番の優先事項は達成できているので、特に後悔はしていないようです。
優柔不断だからこそできること
今回は僕の知り合いのお話を交えながら「優柔不断な人」について考えてみました。
例のごとく記事を書く前にググったんですが、やはり「優柔不断の克服方法」や「決断力をつける方法」のような内容の記事が多く、優柔不断はマイナスなイメージが一般的なようです。「やはり」なんて言ってる時点で僕自身にも「優柔不断」にマイナスなイメージを持つ固定観念があるみたいですね...。
今回のお話で「優柔不断な人」「決断力がある人」それぞれにいいところがあることが伝わっていたらうれしいです。
それでも「優柔不断な自分を治したい」と思う方もいらっしゃると思います。 僕もそう思うことがあるので気持ちはすごくわかります。
僕は「優柔不断を治す方法」を知らないですし、治すことが正しいかどうかもわかりません。 ただ、僕の持論ですが今の自分を否定しても、自分を変えることはできないと思います。 僕がかつてマイナス思考な自分を受け入れたように、現状の自分を受け入れた上で、どう上手く利用するかを考えたほうが楽なんじゃないかなと思います。
きっと「優柔不断を治すこと」は手段であって、広い意味で目的は「自分のことをすきになりたい」ということなのではないでしょうか。 自分のことをすきになるには、まずは現状の自分を受け入れるのが素直な選択な気がします。 優柔不断な方であれば、その懐の深さでご自身のこともきっと受け入れられると思います。
まとまりのない文章になってしまいましたが、スヌーピーのセリフで締めてお茶を濁したいと思います。
今回のお話は以上です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
正論の皮をかぶった根性論
はじめに
今回のお話には僕が嫌っている人の話が含まれます。
そのため、感情的になってしまう部分があるかもしれませんのでご容赦ください。
僕が転職する前の会社でのことです。 当時仕事がうまくいっていなかった僕は、上司にこのまま仕事をやっていけるかとても不安だということを話したことがあります。 その時に上司から返ってきた言葉は
この言葉は一見理屈の通った正論のように見えますが、よくよく考えてみると人間の本能や感情を無視した暴論=根性論ですよね。
字面からはわかりにくいですけど、『根性論』って実はすごく理性的な考え方なんですよね。 「理性的に正しいから、感情を押さえ込んで行動しなさい」ていうのが『根性論』なんです。
かつての僕の上司のように正論(っぽいもの)を振りかざして相手を黙らせようとする人のことをファッション正論マンと呼びます。(さっき考えました。)
※理詰めで人を追い詰めることを『ロジカルハラスメント』というらしいです。
今回は『正論』について考えてみたいと思います。
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は、
- 『理性』だけで判断した論理は『感情』を無視した『根性論』である。
- 『理性』と『感情』の両面から見て納得できる論理こそ『正論』である。
僕が思う『本当の正論』
ファッション正論マンたちは『理性』だけが正しく、『本能』や『感情』は意志の弱い人間の持つ陳腐なものだと思っているようです。 そのため、感情的な観点を考慮せずにものを言ってきます。
しかし、僕が思うに本当に正しい論理というのは理屈だけでなく人間の感情も考慮して考えるものだと思います。 理性と感情の両方の理にかなってこそ正論だと僕は思ってます。
例えば、ある朝、学校や会社に遅刻しないために今すぐ起きて準備しないといけないとします。 しかし「遅刻してはいけない」という理性より「まだ寝たい」という感情に負けてしまうこともあるでしょう。 これってそんなにおかしいことでしょうか? 「遅刻するには起きるしかないでしょ」と言われれば、間違いではないとは思いますが、「寝たい」という欲求(感情・本能)を度外視するって偏見ですよね。
そもそも人間には『本能』があり、それに基づく『感情』があり、その先に『理性』があります。 あくまで『理性』も『本能」の一部であるということです。 『理性』は人間の進化の過程で獲得した『本能』の一つであるという考えの研究も実際にあるようです。 ikedanobuo.livedoor.biz そう考えると理性の観点だけで見た論理が正しい論理(=正論)なわけないですよね。
「理性が正しい」も人間の本能
昨今、論理的思考の重要性が注目されていますが、論理的思考というのは別に感情を取っ払って考えることではないはずです。 そこをはき違えて理屈だけで相手を責め立てるのは卑怯だと思います。
ではなぜ、僕は上司に理詰めされて言い返せなかったのか。 理詰めにされると何も言えなくなること、みなさんもないでしょうか。
先ほど紹介した記事で言及されていましたが、人類は弱い個体が血縁を超えた協力で集団を維持するために『理性』を獲得した可能性があります。 『理性』は個人の主観に左右されない論理なので大きな集団を形成するうえでの指針になりえたということです。
以前書いた記事で言及した通り、人間には集団を形成したがる習性があるため、集団形成に密接にかかわる『理性』が無条件に正しいと思ってしまうのも人間の本能なのかもしれません。
もう令和なんだから
今回は僕が考える『正論』についてのお話でした。 上手く伝えられたでしょうか....。
ちなみに、最初に出てきたかつての上司にも僕が授けたソウルネームがあるんですが、個人情報を含むため伏せておきました。 zeppekikun.hatenablog.com
「理性が正しい」という人間の本能があるとするなら、僕の考える正論は本能に逆らう行為になるのかもしれません。 そもそも『理性』と『感情』の両立は言うほど簡単じゃありません。 だからこそ今でも根性論が根強く残っているんですから。
とはいえ平成の時代も終わって、もう令和の時代になっています。 そろそろ根性論はやめて、人間には感情があるということを前提に物事を考えていく必要があるのではないでしょうか。 そうしなければ世の中全体のストレスの総和は一向に減らないと思います。
カナダのトルドー首相だって5年前にすでに言ってました。 内閣の半数を『女性』に指名した理由を聞かれたときに彼はこう答えました。
今回はとりとめのない内容になってしまいました。 つたない文章を書いておいて申し訳ないですが、僕の伝えたかった思いの一片でも伝わっていれば嬉しいです。
今回は以上です。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
「めんどくさい」は脳のキャパオーバーのサイン
はじめに
前回の記事を投稿してから少し間が空いてしまいました。 ネタ切れなのではなく、書きたいネタはたくさんあります。 書きかけの下書きもかなり溜まってます。
書きたいことがたくさんあることは一見いいことのように思えますが、書きたいことが同時にたくさん浮かぶと意外とどれにも手がつかなかったりします。 やることがたくさんあると「めんどくさい」と思ってやる気がなくなっちゃうんですよね。 言い訳をしたいのではなく今回は「めんどくさい」という感情がテーマです。
本当は別の記事を投稿しようと下書きを途中まで書いていたのですが、書きたいことがまとまらずそれを整理して書き切るのが「めんどくさい」と思ってしまったんです。 そこから「『めんどくさい』ってなんだろう」と考え始めて、今回の記事を書くに至りました。
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は、「めんどくさい」という感情は
いかに購入の”面倒臭さ”をなくすかが商品陳列のカギ
僕がよく「めんどくさい」と感じる場面の一つに買い物があります。 目ぼしいものがなくて買わないこともありますが、欲しいと思ったものがたくさんあった場合でも買わないことがあります。
あれも欲しいこれも欲しいとなっても財力的に全部買うことはできません。 そこで欲しいものの中から購入するものを選定しなければなりません。 しかし、金額とかデザインとか量だとか、選択肢が多いと考えるべき情報がその分増えてしまいます。 するとだんだん選ぶのがめんどくさくなって、結局何も買わずに帰ってしまいます。 みなさんもこんな経験ないでしょうか。
実は商品の陳列法の一つとして「陳列量を調整する」というものがあります。 www.fmsnet.co.jp 商品を詰め込んでたくさん並べすぎると、かえって分かりにくく、選びにくい印象につながるのだそうです。 他にもいろんな陳列法があるようですが、僕が思うに多くの陳列手法には、いかに購買意欲を下げないようにするか=いかに「買うのがめんどくさい」と思わせないようにするかという観点が共通して存在するような気がします。
「めんどくさい」という感情の役割
何に対して「めんどくさい」と思うかは個人差もあると思いますが、そのときのコンディションでも変わると思います。
例えば、朝の寝起きで頭が覚醒しきってないとき、仕事や勉強が忙しくて余裕がないとき。 普段ならめんどくさいとは思わないルーティンワークでも「めんどくさい」と思ってしまうことが僕にはあります。
逆に、昨晩ぐっすり眠れて気分がいいとき、暇を持て余してるとき。 普段なら「めんどくさい」と思ってやらないことも、やろうかなと思えたりもします。
何か統計を取ったわけではないので、皆さんに当てはまることなのかは分かりませんが、脳に余裕があるときほど「めんどくさい」という感情は湧きづらいのではないかと思います。
もしかすると「めんどくさい」という感情には情報過多による頭のショートを未然に防ぐ役割があるのかもしれません。 そう考えると「めんどくさい」という感情は決して悪いものじゃないと考えることができますね。
「めんどくさい」 と付き合っていく
今回は「めんどくさい」という感情がどういう存在なのかについて考えてみました。
今回の記事を書く前に「めんどくさい」の原因についてググってみました。
ヒットした記事をいくつか読んだんですが、原因を複数に分類して書いてあって「全部読むのめんどくさっ」と思って読むのやめちゃいました…。
仮説を立てる場合、根拠となる情報を提示する必要があるので、下調べはそれなりにしないといけないと思うのですが、脳が「これ以上は無理…!」て言ってるんだから仕方ないですね(笑)。
以前書いた記事で言及しましたが、僕はADHDという発達障害を持っており、平均的な人に比べて一度に考えられる情報量が極端に少ないです。
そのため非ADHDの方に比べると面倒臭がりかと言うと、そうでもないです。 むしろ思い立ったときには行動に移してしまってることが多いです。 そして行動を起こした後で行き詰まって、面倒な道を選んでいたことに気づいて後悔したりします。
このことから、「めんどくさい」という感情は脳の作業メモリ容量に多少の余裕がないと発生しないと言えるのではないでしょうか。
つまり、「めんどくさい」と思えるということは、まだ脳のキャパオーバーを回避できる状態にあるということです。
もし何かに対して「めんどくさい」と思ったときは、「脳の許容情報量の限界が近いのかも」と考えて、一旦休憩を挟んだり、やることを減らしてみることも一つの方法なのかなと思います。
今回のお話は以上です。
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
過密の解消がウイルスの生態系的役割
はじめに
今回の仮説は僕が考えたわけではないんですが、すごく面白いと感じたので紹介させていただきます。
(人によっては今更?ていうお話かも....)
今回お話しすることはこちらの番組(2020/07/12放送)で紹介されていた内容を主に参考にしました。
www.nhk-ondemand.jp
※今回の仮説を番組内で明言していたわけではなく、ウイルスが自然界で担う役割の一例として紹介されていただけです。
新型コロナウイルスが世の中に知れ渡ってある程度時間が経ち、密を避けるとか手の消毒とかが、もはや日常になってきている気がします。 新型コロナウイルスの殺傷力だけでなく、世の中全体の動きを大きく変えたという意味で誰もがウイルスの脅威を実感したと思います。
今回はこの新型コロナウイルスのことというより、『ウイルス』とは自然界においてどういう存在なのかに焦点を当てて考えていきます。
今回の仮説
今回のテーマは
自然界におけるウイルスの役割
についてです。そして今回の仮説は
ウイルスには生物の過密を緩和する役割がある
というものです。
『ウイルス』=『病原体』ではない
『ウイルス』の定義についてWikipediaのページを貼っておきます。 ja.wikipedia.org 今回注目したい部分のみ掻い摘んで説明すると『ウイルス』とは、他生物の細胞を利用しないと増殖することができない存在を指します。(生物としての定義を満たしていない。)
つまり、ウイルスは生物なしには種を存続できないため、生物との共生が不可欠であり、ウイルスの種全体で見ると生物を殺傷する力を持つ種は稀なのだそうです。 ウイルスにとって宿主を殺すことは必ずしも理にかなっていないと言えます。
殺傷力の強い個体は宿主を殺してしまい、移動手段を失うので感染を拡大させる(=種を存続させる)ことができません。逆に言うと殺傷力の弱い個体ほど感染を広げやすいということになります。 つまり、長期的に見るとウイルスは弱体化していく傾向があるということになります。
これが新型コロナウイルスに対しても一部で唱えられていたウイルス死滅説*1の背景となります。
ウイルスが赤潮の解消に一役買っている
新型コロナウイルスの影響もあって、ウイルスの脅威に目が行きがちですが、ウイルスは自然界にとってなくてはならない存在でもあります。
その一例として赤潮があります。 赤潮とは大量発生したプランクトンが異常に密集することで起きます。 人間の立場に立つと漁業に損害をもたらすと言えますが、プランクトンたちにとっても異常な密集は酸素不足を生んでしまいます。 つまりプランクトンたちにとって過密は群れ全体の滅亡危機なのです。
ウイルスの中にはプランクトンに感染する種も存在します。 赤潮になるほどにプランクトンが密集すると、ウイルスの感染効率が上昇し、感染したプランクトンは死滅していきます。 結果的に赤潮(=プランクトンの過剰な密集)を解消する役割をウイルスが担ったことになります。 globe.asahi.com
「ウイルスによって過密が解消された」って、新型コロナウイルスの発生に対して我々人間が取った行動となんだか似ていますね。
新型コロナウイルスは”現代”だからこそ流行った可能性
※ここからは番組内で紹介された内容ではなく、僕の妄想です。
人間の世の中はどんどん便利になっています。 公共交通機関が発達して一人一人の行動可能範囲が拡大し続けています。 また、都市部に人口が偏り過密化も進行しています。 この一部に人口が密集し、各個体の移動範囲が広い状況はウイルスにとって好都合だったんですね。
群れを作って生活する生物って人間以外にもたくさんいますが、これらの生物たちには群れが大きくなりすぎること、過密になることを避ける傾向があります。
例えばミツバチは群れが大きくなると、新しい女王バチが生まれ、働きバチの一部を連れて群れから離れます。 そして新しい場所で新たな巣を作り、元いた群れとは別の群れを形成します。 このミツバチたちの行動を分蜂と言います。 syumatsu-yoho.com この分蜂は群れの大きさが一定を超えたときや、巣箱(人口のハチの巣)のスペースが小さくなってくると起きやすくなるそうです。
もしかしたら人間にとっての過密に対する退避行動が『いじめ』にあたるのかもしれません。 zeppekikun.hatenablog.com
そして、赤潮を発生させたプランクトンたちのように自分たちだけでは過密を防ぎきれなくなると、ウイルスの感染が拡大します。 そしてウイルスによって個体数の減少ないし強制的な群れの分散が起き、結果としてウイルスによって過密が解消される。 そんなメカニズムが生態系の中に存在しているのかもしれません。 あくまで妄想ですけど。
最後に
今回は『ウイルス』の生態系的役割について考えてみました。
ウイルスって一見人間にとって害しかなさそうに思いますけど、他の視点で見てみると全く違う印象を受けますね。 一つの視点だけで物事を捉えると歪な固定観念を生んでしまう可能性があることを改めて感じました。
たまには自分の置かれた状況を俯瞰して見てみるのも、新しい発見や異変に気づくきっかけになっていいかもしれません。
長くなってしまいましたが、今回のお話は以上となります。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。