正論の皮をかぶった根性論
はじめに
今回のお話には僕が嫌っている人の話が含まれます。
そのため、感情的になってしまう部分があるかもしれませんのでご容赦ください。
僕が転職する前の会社でのことです。 当時仕事がうまくいっていなかった僕は、上司にこのまま仕事をやっていけるかとても不安だということを話したことがあります。 その時に上司から返ってきた言葉は
この言葉は一見理屈の通った正論のように見えますが、よくよく考えてみると人間の本能や感情を無視した暴論=根性論ですよね。
字面からはわかりにくいですけど、『根性論』って実はすごく理性的な考え方なんですよね。 「理性的に正しいから、感情を押さえ込んで行動しなさい」ていうのが『根性論』なんです。
かつての僕の上司のように正論(っぽいもの)を振りかざして相手を黙らせようとする人のことをファッション正論マンと呼びます。(さっき考えました。)
※理詰めで人を追い詰めることを『ロジカルハラスメント』というらしいです。
今回は『正論』について考えてみたいと思います。
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は、
- 『理性』だけで判断した論理は『感情』を無視した『根性論』である。
- 『理性』と『感情』の両面から見て納得できる論理こそ『正論』である。
僕が思う『本当の正論』
ファッション正論マンたちは『理性』だけが正しく、『本能』や『感情』は意志の弱い人間の持つ陳腐なものだと思っているようです。 そのため、感情的な観点を考慮せずにものを言ってきます。
しかし、僕が思うに本当に正しい論理というのは理屈だけでなく人間の感情も考慮して考えるものだと思います。 理性と感情の両方の理にかなってこそ正論だと僕は思ってます。
例えば、ある朝、学校や会社に遅刻しないために今すぐ起きて準備しないといけないとします。 しかし「遅刻してはいけない」という理性より「まだ寝たい」という感情に負けてしまうこともあるでしょう。 これってそんなにおかしいことでしょうか? 「遅刻するには起きるしかないでしょ」と言われれば、間違いではないとは思いますが、「寝たい」という欲求(感情・本能)を度外視するって偏見ですよね。
そもそも人間には『本能』があり、それに基づく『感情』があり、その先に『理性』があります。 あくまで『理性』も『本能」の一部であるということです。 『理性』は人間の進化の過程で獲得した『本能』の一つであるという考えの研究も実際にあるようです。 ikedanobuo.livedoor.biz そう考えると理性の観点だけで見た論理が正しい論理(=正論)なわけないですよね。
「理性が正しい」も人間の本能
昨今、論理的思考の重要性が注目されていますが、論理的思考というのは別に感情を取っ払って考えることではないはずです。 そこをはき違えて理屈だけで相手を責め立てるのは卑怯だと思います。
ではなぜ、僕は上司に理詰めされて言い返せなかったのか。 理詰めにされると何も言えなくなること、みなさんもないでしょうか。
先ほど紹介した記事で言及されていましたが、人類は弱い個体が血縁を超えた協力で集団を維持するために『理性』を獲得した可能性があります。 『理性』は個人の主観に左右されない論理なので大きな集団を形成するうえでの指針になりえたということです。
以前書いた記事で言及した通り、人間には集団を形成したがる習性があるため、集団形成に密接にかかわる『理性』が無条件に正しいと思ってしまうのも人間の本能なのかもしれません。
もう令和なんだから
今回は僕が考える『正論』についてのお話でした。 上手く伝えられたでしょうか....。
ちなみに、最初に出てきたかつての上司にも僕が授けたソウルネームがあるんですが、個人情報を含むため伏せておきました。 zeppekikun.hatenablog.com
「理性が正しい」という人間の本能があるとするなら、僕の考える正論は本能に逆らう行為になるのかもしれません。 そもそも『理性』と『感情』の両立は言うほど簡単じゃありません。 だからこそ今でも根性論が根強く残っているんですから。
とはいえ平成の時代も終わって、もう令和の時代になっています。 そろそろ根性論はやめて、人間には感情があるということを前提に物事を考えていく必要があるのではないでしょうか。 そうしなければ世の中全体のストレスの総和は一向に減らないと思います。
カナダのトルドー首相だって5年前にすでに言ってました。 内閣の半数を『女性』に指名した理由を聞かれたときに彼はこう答えました。
今回はとりとめのない内容になってしまいました。 つたない文章を書いておいて申し訳ないですが、僕の伝えたかった思いの一片でも伝わっていれば嬉しいです。
今回は以上です。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。