世界のぜんぶが書いてある本、ない?

普段自分が考えてること、疑問に思ってることを検索してみても意外と答えが見つけられないので仮説を立てて自分から発信してみることにしました。ブログタイトルは、僕のだいすきな漫画『せんせいのお人形』のセリフです。(勝手に使ってます、ごめんなさい。)

その分類、本当に必要ですか?

はじめに

なぜ分類したがるんだろう。
学生のころからなんとなく感じていましたが、ここ数年でこのことを強く意識するようになりました。

性別だとか出身地だとか、ある側面で他者をカテゴリー分けして、本人から得られる情報よりその分類の特徴こそ、その人の本質だと思い込んでしまう。人間ってそんな性質があるように思います。

僕は差別や対立の根本にはこの「分類」が存在しているように思うのです。他人を否定したり攻撃してくる人って自分と相手を違う存在であると区別してるのではないでしょうか。

今回は、僕たちが当たり前のようにこれらは異なるものだと線引きしてしまっている物事に対して、本当にその分類は正しいのか、そもそもその分類は必要なのか考えてみたいと思います。

 

今回の仮説

今回の仮説は、差別や対立の根幹には
自分と相手は異なる存在であるという分類が存在している
のではないか。

そして、その自分と異なる他者を多様性として受け入れるために必要なことは、多様性そのものを認識することではなく、
お互いの共通点に目を向け「みんな大して変わらないな」と思えること
なのではないかというものです。

今回の話にはこの仮説を裏付ける客観的な情報がほとんどありませんが、最終的にこういう落としどころに持っていきますよという意味で今回の仮説ということにしておきます。

 

「怒る」と「叱る」は同じ

みなさんは誰かに「叱られた」ことはあるでしょうか。

学校の先生や会社の上司、親だったり誰でもいいんですけど、「怒ってるわけじゃない」だとか「あなたのためを思って叱っている」なんて決まり文句を言ってくる人がいると思うんです。

彼らの中では「怒る」と「叱る」は別物であって、怒るのはダメだけど自分は叱ってるからいいんだよというのが彼らの言い分なのです。

ここで両者の言葉の定義を確認してみます。

goo辞書より。

  1. おこ・る【怒る】 
    の解説 (参照元)
  2.  不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって―・る」

  1.  よくない言動を強くとがめる。しかる。「へまをして―・られた」

 

しか・る【𠮟る/×呵る】 の解説 (参照元)

[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」

「怒る」の意味の一つとして「叱る」がありますね。

それに「叱る」の解説にあるように、他者のよくない言動を指摘して諭したいのであれば、声を荒げたり追い詰めるような言い方をする必要ってどこにもないはずです。よくないと思う点を指摘し、なぜよくないのか、どうするべきか説明してあげればいいだけですよね。

仮に本当に相手のことを思って叱ったとして、相手は「怒られている」のか「叱られている」のか区別がつくでしょうか。どちらも相手の言動を指摘して怒鳴りつけ、強く非難するような言い方をしていることには変わりないですよね。

ということは、怒っていようが叱っていようが相手が受け取るものって同じだということになります。いくら相手のためを思っていようとも、その相手から見て怒っているのか叱っているのか区別がつかないのであれば、それはもう「怒る」と「叱る」は同じだと言っていいのではないでしょうか。

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彼らは怒りたくて怒っているだけなのです。そしてそれを正当化するために、自分たちは「怒っている」のではなく「叱っている」のだと、「分類」を駆使しているのです。

この「怒る」と「叱る」が同じだという話については、こちらの記事が面白かったので、併せてご参照いただけたらと思います。

note.com

 

「家族」や「結婚」を法が定義する

次に僕が最近読んだこちらの記事を紹介します。

概要は説明しますが、大変興味深い内容となっておりますので、ぜひご一読ください。

gendai.ismedia.jp

こちらの記事では「家族」を法で定義することの問題点を指摘しています。

現在の日本の法では、愛し合っているのに家族として認められず、引き裂かれてしまう人々がいます。

わかりやすいところでいうと、同性カップルという存在があります。彼らは同性同士のカップルであるがゆえに結婚が認められず、病気などの緊急時に同性パートナーは家族でないとされて面会を断られたり、家族でないと入居が認められない賃貸住宅に一緒に入居できなかったりします。

彼らは確かに愛し合っているのに、法によって「あなたたちは家族ではない」と残酷に引き裂かれてしまうのです。異性カップルの愛は本物で、同性カップルの愛は偽物だなんて、いったい誰が証明できるんでしょうか。

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この時点で、現在の法で定められる「家族」の定義は、本当に正しいのだろうか、という疑問が浮かぶのではないかと思います。

 

例外のある分類に意味はあるのか

さきほど同性カップルを例に、法による「家族」の定義の問題を説明しました。では同性カップルの婚姻さえ認められれば、この問題は解決するのでしょうか。

答えは否です。他に結婚が認められない例として、一夫多妻や一妻多夫のような集団で愛し合う人々が存在します。血縁上の親や恋人以外の人と、友人として愛し合っている人たちだっています。

つまり、法における「家族」の定義をいくら改正しようとも、その定義に当てはまらない例外は存在してしまうのです。

こうなってくると、その関係が家族なのかどうか、結婚できるか否かを線引きすること自体が間違っている可能性が出てきます。さきほどの記事では、法が「家族」という定義を扱うことそのものの必要性を論じているのです。

僕の解釈も入ってますが、以上が参照記事の紹介でした。

 

相違点より共通点に目を向ける

ここまでの内容で、当たり前のように存在する言葉の定義や法による線引きに対し、その分け方は本当に正しいのか、線引きされた両者に本質的な違いがあるのかについて考えてみました。

人が他者を排除しようとするとき、そこには自分と相手は違うという線引きをしているのではないか、という考えに僕が至った理由がなんとなく伝わっていたらうれしいです。

僕は何も分類することそのものを悪いことだと思っているわけではありません。無数にある個体群をある側面に基づいてグループ分けすることで、全体を大まかに把握することができますし、任意の個体の特徴や性質を瞬時に予想することができます。

人間が物事を理解するうえで、分類は非常に有用なのです。というか人間は分類して整理しないとそもそも新しいものを理解できないそうです。

hotozero.com

 

僕も無意識のうちに人をカテゴライズしているなと、この記事を書きながら改めて思いました。分類しようとしてしまうこと自体は本能的な部分ですし、実際大いにメリットもあるので分類すること自体を咎めることはできないです。

ただ、すでに分類されているものであっても、共通点を見出して分類をなくしていくことが、多様性を受け入れていく上では重要なのではないかと僕は考えています。

先の同性カップルの例でいえば、異性同士であろうと同性同士であろうと、お互いが愛し合っているという点では変わりないという視点を持てていたからこそ、筆者は両者を尊重できたのだと思います。

つまり、多様性を受けれられる人は、一人ひとりの違いを受け入れているのはなく、みんな大して変わらないという大まかな視点でとらえているのではないでしょうか。

このようなシンプルな考え方をしているからこそ、どんな価値観や思想に遭遇したとしても、自分の価値観の範疇として受け入れられるのかもしれません。

 

その分類、本当に必要ですか?

今回は、分類することが差別や対立を生んでいるのはないかという仮説をもとに、関連記事を紹介しつつ、僕の思う「多様性を受け入れること」について話してみました。

現代ってあらゆることを分類しすぎていると思うんです。物事を理解しやすくするために分類してたはずなのに、分けすぎて逆に煩雑になっちゃって本質が見えづらくなっている気がします。

分類は人が物事を理解するために欠かせないものですが、一方で分類はあくまで本質を理解する上での足掛かりでしかないと僕は思っています。理解のために一旦は分類したとしても、「違うと思ってたけど、こういう視点で見れば同じだよね」というふうに統合していくことで、より汎用的でシンプルな理解になっていくのではないでしょうか。

複雑すぎて理解できないことがあったり、誰かと意見が対立したときは、何か不必要な分類をしていないか考えてみてもいいかもしれません。

 

今回のお話、正直まだ自分の言いたいことをまとめきれてなくて、長ったらしい文章になって申し訳ないです。いったんアウトプットして頭をリセットしたくて投稿しました。更新頻度はなかなか上げられないですが、今後も投稿続けていきます。

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。