いじめっこは依存症患者
今回の仮説
前回の記事ではいじめの『標的』の選定基準について考えてみました。 zeppekikun.hatenablog.com 今回は逆に”いじめる側”に着目してみたいと思います。
今回のテーマは
なぜいじめっこは『いじめ』をやめられないのか
です。そして今回の仮説は
いじめっこは”制裁行動”による『快楽』に溺れた依存症患者である
というものです。
『いじめ』と『快感』
前回も紹介した以下の記事では『いじめ』を脳科学的視点で捉えた見解が紹介されています。 僕が以前立てた「『いじめ』の根本原因は本能にあるのではないか」という仮説の裏付けにもなると思います。 edupedia.jp こちらの記事では脳内ホルモンに関しても言及されています。 人が集団を作り仲間意識を感じるとき、集団の中のはみ出し者を排除しようとしているとき、脳内ではある種の『快楽物質』が発生しているそうです。
今回注目したいのは後者の「いじめを行っている最中、いじめる側は『快楽』を感じている」という点です。 そして『快楽』を生み出している快楽物質はドーパミンという物質なのだそうです。
僕はこのことを知って「依存症に似てる」と感じました。 なぜなら依存症患者が依存行動の最中に脳内で分泌されている物質もまたドーパミンだからです。 いじめっこが誰かをいじめているとき、アルコール依存症患者がお酒を飲んでいるとき、脳内は同じ状態になっているのです。
もし仮に『いじめっこ』=『いじめ依存症患者』なのだとすると、アルコール依存症や薬物依存症と同様に、いじめ依存症を治療するという観点もいじめ解決のためには必要なのかもしれません。
依存症とドーパミンについてはこちらの記事をご参照ください。 www.drp.ne.jp
「快感を感じる」=「生物本能的に正しいことをした」?
ここからは『いじめ』という制裁行動の先にある『快感』について考えていきます。
最初に紹介した記事にもありましたが、人が集団を作ろうとするのも、集団の中のはみ出し者を排除しようとするのも脳に組み込まれた機能です。 いわば人間が長い進化の過程で培ってきた経験則=本能なのだと思います。
そして、本能に従うことは『快感』を伴います。
言い換えると
『快感』を得られる行為 = 生物本能的に正しい行動
ということになるのではないでしょうか。 そう考えると、快楽物質の分泌は生物本能的に正しい行動への脳からの報酬であると捉えることができます。本来、 ①生物本能的に正しいことをした→②脳から快楽物質が分泌→③気分がよくなる という時系列なのでしょうが、アルコールや薬物はこのメカニズムを逆手にとって、①をすっ飛ばして②を無理やり起こさせているといえるのかもしれません。
そう考えるとアルコールや薬物のように摂取しなければなりえない依存症より、いじめ依存症のほうが生物本能的に正しい分厄介な気もしますね。
今回の仮説は以上です。
本能には本能を
今回は『いじめ』をなくす方法について考える一環として、『いじめっこ』の存在について考えてみました。 毎度思うことですが、考えれば考えるほどに『いじめ』の根深さを感じます。
でも絶対に『いじめ』をなくすことができないなんてことはないと僕は思ってます。 確率論や多数決の法則があるように人間ってなぜか「多数派の方が正しい」という固定観念を持ってる気がします。 自分と同じ意見の人がたくさんいると、なんだかほっとしますよね。
多数決で物事を決めることは「より多くの人の意見を反映させる」と言えば聞こえはいいかもしれません。 しかし、「多数派の意見が正しい」ことって場合よっては全く信憑性がないと言えると思います。 極端な例えをするなら、「1+1の答えは2である」という人より「1+1の答えは3である」という人が多ければ、後者が集団内の常識になってしまうわけです。
「多数派の方が正しい」という固定観念もまた、人間が集団を維持していくために培った本能なのだと思います。 この本能を利用します。
もし『いじめ』=『依存症患者の異常行動』という認識を持つ人が多数派になれば、それが世の中の常識になります。 この認識が一般的になれば、いじめを行うことこそが集団からはみ出した行為とみなされて集団からいじめを排除しようという動きが生まれるかもしれません。
『いじめ』という”本能”に『多数決の法則』という”本能”で対抗するということです。 いわゆるハンムラビの「目には目を歯には歯を」というやつですね。 人類の進化の歴史そのものともいえる本能には、逆らうより受け入れてうまく利用する方が問題解決の近道だと思います。
じゃあどうすれば『いじめ』を矮小化できるのか、この先にはまだたどり着けてないです...。 悪いとわかっててもやめられないのが依存症ですから、そう簡単にはいかないとも思います。 でも「『いじめ』をなくすことは理論上できる」とだけでも感じてもらえたならうれしいです。
いつか「『いじめ』は古い、ダサい」という感覚が広まった時代を迎えられることを目指して、これからも考えていきたいと思います。
今回のお話は以上です。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。