「めんどくさい」は脳のキャパオーバーのサイン
はじめに
前回の記事を投稿してから少し間が空いてしまいました。 ネタ切れなのではなく、書きたいネタはたくさんあります。 書きかけの下書きもかなり溜まってます。
書きたいことがたくさんあることは一見いいことのように思えますが、書きたいことが同時にたくさん浮かぶと意外とどれにも手がつかなかったりします。 やることがたくさんあると「めんどくさい」と思ってやる気がなくなっちゃうんですよね。 言い訳をしたいのではなく今回は「めんどくさい」という感情がテーマです。
本当は別の記事を投稿しようと下書きを途中まで書いていたのですが、書きたいことがまとまらずそれを整理して書き切るのが「めんどくさい」と思ってしまったんです。 そこから「『めんどくさい』ってなんだろう」と考え始めて、今回の記事を書くに至りました。
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は、「めんどくさい」という感情は
いかに購入の”面倒臭さ”をなくすかが商品陳列のカギ
僕がよく「めんどくさい」と感じる場面の一つに買い物があります。 目ぼしいものがなくて買わないこともありますが、欲しいと思ったものがたくさんあった場合でも買わないことがあります。
あれも欲しいこれも欲しいとなっても財力的に全部買うことはできません。 そこで欲しいものの中から購入するものを選定しなければなりません。 しかし、金額とかデザインとか量だとか、選択肢が多いと考えるべき情報がその分増えてしまいます。 するとだんだん選ぶのがめんどくさくなって、結局何も買わずに帰ってしまいます。 みなさんもこんな経験ないでしょうか。
実は商品の陳列法の一つとして「陳列量を調整する」というものがあります。 www.fmsnet.co.jp 商品を詰め込んでたくさん並べすぎると、かえって分かりにくく、選びにくい印象につながるのだそうです。 他にもいろんな陳列法があるようですが、僕が思うに多くの陳列手法には、いかに購買意欲を下げないようにするか=いかに「買うのがめんどくさい」と思わせないようにするかという観点が共通して存在するような気がします。
「めんどくさい」という感情の役割
何に対して「めんどくさい」と思うかは個人差もあると思いますが、そのときのコンディションでも変わると思います。
例えば、朝の寝起きで頭が覚醒しきってないとき、仕事や勉強が忙しくて余裕がないとき。 普段ならめんどくさいとは思わないルーティンワークでも「めんどくさい」と思ってしまうことが僕にはあります。
逆に、昨晩ぐっすり眠れて気分がいいとき、暇を持て余してるとき。 普段なら「めんどくさい」と思ってやらないことも、やろうかなと思えたりもします。
何か統計を取ったわけではないので、皆さんに当てはまることなのかは分かりませんが、脳に余裕があるときほど「めんどくさい」という感情は湧きづらいのではないかと思います。
もしかすると「めんどくさい」という感情には情報過多による頭のショートを未然に防ぐ役割があるのかもしれません。 そう考えると「めんどくさい」という感情は決して悪いものじゃないと考えることができますね。
「めんどくさい」 と付き合っていく
今回は「めんどくさい」という感情がどういう存在なのかについて考えてみました。
今回の記事を書く前に「めんどくさい」の原因についてググってみました。
ヒットした記事をいくつか読んだんですが、原因を複数に分類して書いてあって「全部読むのめんどくさっ」と思って読むのやめちゃいました…。
仮説を立てる場合、根拠となる情報を提示する必要があるので、下調べはそれなりにしないといけないと思うのですが、脳が「これ以上は無理…!」て言ってるんだから仕方ないですね(笑)。
以前書いた記事で言及しましたが、僕はADHDという発達障害を持っており、平均的な人に比べて一度に考えられる情報量が極端に少ないです。
そのため非ADHDの方に比べると面倒臭がりかと言うと、そうでもないです。 むしろ思い立ったときには行動に移してしまってることが多いです。 そして行動を起こした後で行き詰まって、面倒な道を選んでいたことに気づいて後悔したりします。
このことから、「めんどくさい」という感情は脳の作業メモリ容量に多少の余裕がないと発生しないと言えるのではないでしょうか。
つまり、「めんどくさい」と思えるということは、まだ脳のキャパオーバーを回避できる状態にあるということです。
もし何かに対して「めんどくさい」と思ったときは、「脳の許容情報量の限界が近いのかも」と考えて、一旦休憩を挟んだり、やることを減らしてみることも一つの方法なのかなと思います。
今回のお話は以上です。
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。