ニュース『ジョコビッチ選手が線審にボールをぶつけてしまい、失格処分となった』件に対して思うこと
はじめに
今回は仮説を立てる記事ではありません。 世間で起こった出来事(それに対する世間の反応を含めて)に対して僕が抱いた意見・感想を述べたいと思います。
今回取り上げる記事はわりと世間的に大きなニュースになった気がするので、関係者の誰かが言うだろうと思ってました。 しかし、僕が知る限り同じ意見を述べる人がいなかったので、完全なる部外者の僕が発言してみたいと思います。
今回取り上げるニュース
すでにご存じの方はこちらへスキップ
今回のニュースの記事がこちら www.thetennisdaily.jp
概要
2020年8月31日より開催された全米オープンテニス2020年大会にて、第1シードのジョコビッチ選手のプレー外で打った球が線審の首に当たってしまう事故が発生した。 ボールが当たった線審はその場で苦しんだが、大事に至ることなく済んだと後に大会側は述べている。 同試合の審判はこれを「不必要な危険行為」とみなし、大会規定に則ってジョコビッチ選手を失格処分とした。
これに対し、世間からはジョコビッチ選手に対する非難が相次いだ。 ボールが当たった線審に対する非難も一部あった。
同じプロテニス選手および関係者からは、「不運な事故だった」とジョコビッチ選手や線審に対する同情のコメントや世間と同様にジョコビッチ選手を強く非難するコメントがあった。
ジョコビッチ選手のInstagramでの声明では、あの行為は「故意ではなかった」としながらも、「間違っていた」と謝罪のコメントを出している。 また、対戦相手だったカレーニョ ブスタ選手も「故意ではなかったが、やってはいけないこと」であると見解を述べている。
僕の考え「論点はそこじゃない」
僕は審判の取った判断に反論はありません。 ルールに則って判断を下すのが審判の役割だからです。
僕が違和感を持ったのは、世間の反応、関係者の反応、そしてジョコビッチ選手本人の発言すべての論点が
誰に罪があるのか、どのくらい重い罪なのか
に終始していたことです。
僕は各立場のいろんな発言を見ながら、
「なぜ誰も『ボールが線審にぶつかることを防ぐ方法』について論じないのだろう」
ともやもやしていました。これまでもテニスの試合でボールが審判やボールボーイにぶつかる事故は幾度となく発生していました。 今回のようなプレー外の打球だけでなく、プレー中に打った球が偶然人にぶつかることも多いです。 しかし、そのたびに論じられるのは ボールをぶつけた選手に罪があるかどうか、ぶつけた後の選手の対応に対する評価 だけだったのです。
そして、「命に関わる危険性がある」と認知されながらも、プレーヤー以外の人にボールがぶつかるという事件がなくならないということは、根性論ではどうにかならない、具体的対策を取る必要がある問題だということです。
つまり、審判やボールボーイたちが何度も命の危険に晒されてるのに、未然に防ごうという動きが見られないことに僕は危機感を感じています。
「野球のホームベースの審判は防具フル装備してて、テニスのサーブは200km/hを超えることもあるのに線審やボールボーイはなんで丸腰なんだろう」て疑問に思うのは僕だけでしょうか。
このニュースから本来得られる現状の問題点は
『審判やボールボーイの命が脅かされる危険性に対策が取られていないこと』
なのではないでしょうか。
根性論を人に強いるのはやめよう
僕は元々すきなのでプロテニスの試合をよく見ます。
特にシングルスに対して思うのですが、テニスというスポーツはとてもストレスが溜まりやすいスポーツだと思います。
1試合が4,5時間かかることもザラですし、試合中にコーチからアドバイスを受けることは禁止されています。
つまり数時間の試合中ずっと1人で戦い続けなければならないスポーツなのです。
※試験的にセット間だけコーチにアドバイスを受けることを許可する大会もありました。
フラストレーションの溜まった選手がラケットを叩き割ったり、審判と口論になることも少なくありません。 そしてそういった行為が起こるたびに観客は選手にブーイングを浴びせ、時には今回のジョコビッチ選手のように失格処分になることもあります。
基本的に選手たちはプレーに専念することが第一です。 プレーを続けることの意義は人それぞれでしょうが、生活だってかかってるんだから当たり前です。
それに加えて、観客や審判には敬意を払わなければならないだの、コート上では常に平静を保って紳士的なふるまいをしなければならないだの、いわゆるスポーツマンシップの強要を外野がしてくるわけです。 「選手たちに向かってブーイングを浴びせたり、ネットで誹謗中傷してるあなた方は何なの?」って正直思っちゃいます。
僕もスポーツマンシップ自体を否定するつもりはないです。
しかし、ただでさえ1人っきりでストレスに耐えながら何時間もプレーを続ける必要がある選手たちに、常にコート内や観客席の人間に無礼や危険がないように意識し続けろというのは、あまりに酷なことだとは思いませんか。
今回のニュースはあくまで事故です。 ジョコビッチ選手を擁護したいのではなく、本人の発言通り(僕も映像見ましたがあきらかに)故意ではなかったのに起きたからです。 故意でなくても起きてしまうのなら、プロテニスのルールや大会の規定を見直す必要があるのではないかと考えるのが自然だと思うのです。
まだ話したいことはあるのですが、長くなりすぎるので今回はここまでとします。 この記事が「問題の本質はどこにあるのか」ということを考えるきっかけになってくれると嬉しいです。
ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
『悩む』も『考える』の一つ
今回の仮説
今回のテーマは
についてです。
そして今回の仮説は
です。
上の2つ絵は同一のフリー画像素材サイト*1からいただいてきた『悩む人』と『考える人』の絵です。 みなさんが両者に抱くイメージとして大体合ってるんじゃないでしょうか。
悩んでいるうちは解決しない?
以前書いた記事でも言及しましたが、僕は新卒入社2年目で転職をしました。 転職前の会社では仕事がうまくいかず、どうすればできるようになるのか悩みに悩んでいました。 配属されて1ヶ月経った頃からずっと悩み続け、1年経ったころ上長に言われました。
要は「君は問題解決のスタートラインにすら立ててないんだよ」ってことを言われたわけです。 今思うと、この人弱ってる人間にひどいこと言うなと思いますが、1年以上同じことで悩み続けて憔悴していた僕は「だから解決できないのかあ」と素直に受け取ってました。
『悩む』≠『考える』?
ググると『悩む』と『考える』は違うという記事は結構出てきます。 下記のベン図のように『悩む』と『考える』は全く異なるものであるとするイメージが幅を利かせてるようで、当時の上長もその一派だったようです。 そして、ほぼすべての記事が『悩む』ことを否定して『考える』ことを促してきます。 当時もググりましたが、「この1年自分はこんなに苦しんだのに全部無駄だったのか」と余計に落ち込んでしまいました。
そして、その「考えろ」って言ってる記事に書いてある解決方法って「そんなのとっくにやっとるし」とか「それができないから困ってるんですけど」って思うようなことしか書いてませんでした。 それらの記事に書いてある解決方法をすでに試していた僕は”考えていた”ことになっちゃいますね(笑)。
それに、最初に貼り付けた『悩む人』と『考える人』の絵って、「まったく違う」と言えるほど違いがあるように見えるでしょうか?
『悩む』も『考える』の1つである
僕が思う『悩む』と『考える』の関係を図にしてみると以下のようなイメージです。 『悩む』も『考える』のうちに含まれるということです。
しっかり言葉にするなら『悩む』とは
以前『マイナス思考』とは『起こりうるリスクを洗い出す思考』であるという仮説を立てました。 zeppekikun.hatenablog.com この仮説を前提に考えるなら、『悩む』ことができているということは、
実は『悩む』ことができてるって結構すごいことなんですよ!
今回の仮説に関しての説明は以上となります。
最後に
ここまで読んでくださる方がいるかわかりませんが、中には今まさに”悩んでる”方もいるんじゃないかなって思います。 僕もまだ「『悩む』の次の段階へ進む方法」を考え続けてる途中なんですよね...。 万能薬みたいな答えを期待させてしまっていたら、本当にごめんなさい。
当時の僕が『マイナス思考』により、見つけ出したリスクは「このままでは今の職場で生き続けることはできない」ということでした。 つまり僕の目的は「”この職場で”生き続ける方法を見つけること」でした。 そして、1年半悩んだ末に僕が出した答えは「これだけ悩んで解決方法が見つからないなら、答えはない」でした。
そこで僕は今一度目的を見直しました。 「”この職場で”生き続ける方法を見つけること」が本当に一番譲れないことなのか。 僕は「この職場で生き続けたい」のではなく「息苦しい場所から抜け出したい」と思ってるのだと気付きました。 僕にとって『息苦しい場所』=『職場』なのだから一番素直な手段である「会社を辞める」を選択するに至ったのです。
「どうせやめるなら、1年半悩む必要あった?」と思われる方もいるかもしれません。 僕はあったと思っています。 1年半も悩んで出した答えだったからこそ、心残りもなく確固たる意志を持って「会社を辞める」という選択ができたのだと思います。
「悩むことに意味はない」というのは簡単です。 でもそれって『悩む』≠『考える』派の方々が嫌っている、物事を否定的にとらえるマイナス思考じゃないですか? せっかく長い時間を使って問題に向き合い悩んだのなら、素直に自分をほめてあげたっていいじゃないですか。 僕みたいに息苦しい場所から抜け出して、息をしに行くのも1つの選択肢だと思っていただけるといいなあ思います。
後書きが長くなりすぎてしまいました。
もう少し簡潔に説明できるようになりたいなあと思いつつ、今回は以上とさせていただきます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
*1:いらすとや https://www.irasutoya.com/
マイナス思考な人は危機管理能力が高い
今回の仮説
今回のテーマは
そして今回の仮説は
自分はどうしてネガティブなのか
僕は学生時代に部活の顧問の先生に
※僕はこの先生を尊敬してるので決して貶める気はありません
僕はこの言葉にひどくショックを受けました。 それまで自分がネガティブだなんて思ってもみなかったからです。
それからの僕は今自分が考えたことがポジティブなのかネガティブなのかを意識するようになりました。 すると確かに自分がマイナス思考しがちだということに気づきました。
自分がネガティブであると気づいてからの僕はマイナス思考になるたびに「ポジティブに考えなきゃ!」と思いプラス思考を心がけました。 しかし、この「ポジティブにならねばならない」ことを意識すればするほどにネガティブな自分が浮き彫りになっていきました。
「こんなに意識してるのになぜポジティブになれないんだろう」と考えているうちに、そもそもネガティブに考えることを悪いことではないと思っている自分に気づきました。
考え方を変えよう
僕はポジティブになることを諦めました。 その代わりに「プラス思考絶対優勢」という考え方を変えることにしました。
だって僕はマイナス思考のおかげで得したことが何度もあります。 僕は待ち合わせのときは「もし電車が遅れたらどうしよう」とマイナス思考して早めに出発するので遅刻することが少ないです。 高校受験だって「万が一にでも落ちたらどうしよう」とマイナス思考したから早めに受験勉強を始めました。 そしていつも最悪な状況を覚悟しているから、現実になってもショックの衝撃が少なくて済みます。
どうして多くの人がマイナス思考をしてしまうことがあるのか。 それはマイナス思考にもメリットがあることに他ならないのです。
プラス思考もマイナス思考も使い方次第
『マイナス思考』は『起こりうるリスクを洗い出す思考』であって、マイナス思考自体は悪いものではありません。 やりすぎるとリスクを気にしすぎてチャンスを逃す可能性があることもまた事実ですけどね。
逆に『プラス思考』は『起きたことや現状に対して価値を見出す思考』です。 もちろん良い側面もありますが、使い方を誤るとリスクの見逃しや悪いことを放置してしまうことに繋がりかねません。
僕が思うに、プラス思考もマイナス思考も『考え方』という一つの”技術”です。 どちらを選びやすいかは性格なのかもしれませんが、二つの思考自体には良いも悪いもありません。 要はどちらの思考を使うにしても、「考えた後でどう行動するか」が重要なのです。
最後に
書いてみると意外と長くなってしまいました...。
よくよく考えてみると「マイナス思考にもメリットはあるんじゃないか」って考え方を変えること自体は『プラス思考』に近い考え方ですね(笑)。
僕も無意識下で『プラス思考』と『マイナス思考』を使い分けてたんでしょうね。
「プラス思考が正しい、マイナス思考は絶対的に悪い」と決めつけるのは思考停止してるのと同じだと今の僕は思っています。 もし、マイナス思考な自分に悩んでいる方や「ポジティブに考えなさい」と周りに強要されて困ってる方は一度考えてみてください。
ふとスピッツの『さらさら』という曲の歌詞が浮かんだので、それで締めたいと思います。
(すごく落ち込んだときはスピッツさんの曲に助けられてます。)
以上です。お付き合いいただいた方、ありがとうございました。
閉鎖空間がいじめを生む
前提
本記事ではいじめをある種の現象として捉えるために、以下の定義を置いて話を展開していきます。
『いじめ』とは、
ぶっちゃけこれ自体が仮説の一部なんですが、これを前提に話を進めていきます。
今回の仮説
説明が長くなりそうなので、先に仮説を提示します。
『いじめ』の目的は
であり、いじめの原因(≒引き金)は
ではないか、という仮説を今回提示します。
魚の世界にも『いじめ』は存在する
まず、今回の仮説に至る発端となった記事を紹介します。
www.asahi.com
さかなクンによると魚の世界にも『いじめ』が存在するそうです。
海の中を群れで泳いで生活するメジナをせまい水槽に一緒に入れると、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めます。その魚を別の水槽に移すとまた別の1匹が攻撃されるようになります。
一方で広い海で生活するメジナたちの間ではこのような現象が起きないようです。
このことからわかる事実は2つです。
野生の猿の群れには『ボス猿』はいない
さらに本仮説の裏付けになりそうな記事を1つ紹介します。 masatotahara.com 猿は群れで行動します。 群れの中にはボス猿が存在し、群れを統率しています。 これは動物園の猿を観察して発見されたものです。 しかし、野生のサルの群れを観察するとボス猿が存在しないのです。 つまり、動物園という管理された限定的環境下に置かれて初めて、『ボス猿』という概念が生まれたのです。
この記事から僕が考えた仮説がこちら。
以上が本仮説の裏付けとなります。
最後に
人類の歴史だけを見ても『いじめ』は昔から存在し、そして今もなお存在し続けています。
僕のだいすきな漫画の一つに『3月のライオン』という作品があります。この作品では作者の羽海野チカ先生の姪っ子さんの実話をもとに、学校で起きた『いじめ』について描かれたエピソードがあります。このエピソードの中で『いじめ』の標的にされたひなちゃんのセリフの1つがこちら。
『何かクラスの中に見えない階級とかがあって、その階級にあわせて、「どのくらい大きな声で笑っていい」とか、「教室の中でどのくらい自由に楽しそうにふるまっていい」かが決められてるみたいな。…誰がえらくて、誰がえらくないって、いつどうやって決まるの?』
みなさんも同じようなことを感じたことがあるのではないでしょうか。 僕も学生時代、意識はしていなくても感じていたと思います。
僕はこれまで「なんでいじめてくるんだろう。いじめっ子は全員いなくなればいいのに。」といじめっ子の気持ちなんて考えてやるもんかと決め込んでいました。しかし「こんなに多くの人が問題意識を持っていてもなくならないなら、『いじめ』の原因は生物本能のようなもっと根深いところにあるんじゃないか。」と考え始めて、この仮説に至りました。
ここまで書いておいてなんですが、この記事の仮説だけでは『いじめ』の解決方法を見出すことはできません。 人間が地球上でここまで繁栄してしまった以上、今更ヒエラルキーをなくすほどの生活空間を確保するのは難しいでしょう。 この記事が『いじめ』について考えるきっかけにでもなってくれたらうれしいです。
また、別の記事でお話しできればと思いますが、『ヒエラルキー』と『いじめ』は必ずしもセットではありません。
あくまでいじめ発生の必要条件でしかありません。『ヒエラルキー』の存在と『いじめ』の回避はまた別問題です。
なぜなら、ヒエラルキーを持ちながら、上下関係のある固体の間で『いじめ』が発生しない例があるからです。
例として『リニア・ヒエラルキー』という犬などの群れに存在するものがあるですが、詳しくはこちらを参照ください。
ameblo.jp
今回はかなりのボリュームになってしまいましたが、あくまで理想は「『いじめ』をなくすこと」なので、これからも考えていきたい課題です。
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
【番外編】生まれ変わるならスパコンになりたい
今回の話は以下の記事の番外編となります。
どちらの記事から読んでもらっても構いませんが、この記事ではADHDの詳しい説明はしませんので全く知らないという方は少し前提知識があったほうがいいかもしれません。
zeppekikun.hatenablog.com
※今回のお話には僕の考える仮説はありません。普段無性に感じるどうしようもできないことをつらつら書いていくだけのストレス発散日記です。
僕にはどうしても治らない癖があります。
一度何かを考え出すと次から次へと考える内容が二転三転してしまいます。
人の話を聞いている途中で何か引っかかるワードがあるとそこから脳内で連想ゲームが始まります。
そして気づいた時には話が終わってて全く聞いてなかったなんてこともザラです。
決して悪気はないんです...!
でも話している相手からすると不快であることに対しても反論の余地がありません。
小学生のときからこのことを悩んでました。全校集会の校長先生の話や部活の先生から指導を受けるたびに「今回はちゃんと話を聞くぞ!」と意気込んで臨んでいましたが、成功したことは一度もありません。
先生に叱られているときでさえ、話が終わって我に返った時には僕は脳内で「人間は記憶によって時間を間接的に感じてるだけなんじゃないか。」と自力で世界五分前仮説*1にたどり着いていました(泣)。
先生、本当にごめんなさい。僕はどんなに頑張ってもできないことはあると悟りました。
しかし、これで話は終わらなかった。
そんな小学生だった僕も大学を卒業して就職しましたが、仕事の話ももちろん聞けない...。
僕は周囲からの信用を無くし、毎日叱責やため息をつかれる日々を過ごしていました。気づくと僕の精神状態はズタボロになっていました。
僕は職場の外の人間に助けを求めました。
会社の保健師さんに仲介してもらい精神科の病院で診察を受けることになりました。
初診の時に先生に「心理テストしましょう」と言われ、臨床心理士さんのもと、数時間かけて知能テスト?*2のようなものを受けました。
次に診察を受けたときにテストの診断結果を教えてもらいました。僕はてっきり「うつ病です。」と言われると思っていました。
しかし、先生の口から出たのは
「ADHDですね。」
でした。
※うつ病の診断も出てました。
「そういうことだったのか...!」
僕は長年の悩みの正体を知ることとなりました。その場で軽くADHDの説明を聞き、そのあと自分でもググってみましたが、思い当たる節しかない。
あのときどんなに頑張ってもできないことはあると悟ったことが事実として証明されてしまったのです。
僕は病院の送迎車が駅に到着するまでの間、涙が止まりませんでした。
会社を辞めることにしました。
今でもその選択は正しかったと思っています。
会社での悩みを相談していた恋人、保健師さん、人事の方...全員が口をそろえて「会社を辞めるべき」と言いました。
自分でも今の職場で生き続けることはできないと考えていました。
人事の方との話し合いで次の仕事探しの方向性が決まったその日に「会社を辞める」ことを人事の方経由で上司に伝えてもらいました。
転職した今も恐怖と戦い続けています。
転職活動中も面接は合格だったのに、適性テストで「うつ病になりやすい傾向がある」という理由でお断りされたときはもう死ぬかと思いました。
なんとか受け入れていただける先を見つけ、今のところ前職のような状態にはならずに続けられています。
もちろんADHDやうつ病の話は今の会社には伏せてあります。
僕が本当の意味でこの悩みを解消できることは一生ないと思います。
ADHDは所詮個性の延長でしかなく、そもそも患っているわけではないので治ることはないからです。
僕は自身の特徴を知ることができたので、ADHDが苦手とする同時にたくさんのことを把握しなければならない状況をなるべく避けるように生活しています。
そのおかげもあってか、自分を否定したくなることは以前よりは減ったと思います。
これからもADHDを受け入れたうえで生きていこうと思っています。
*1:世界5分前仮説とは http://akirako.com/meme/?p=1715
*2:発達障害診断テストWAIS-IV https://fk-clinic.com/notice/1587203155.html
嫌いな人にはあだ名をつけてあげよう
はじめに
★「前置きはいらんよ」な人はこちらへスキップ
「この人嫌いだなあ」とか「この人のこういうところ嫌だなあ」って思うことありませんか?
別に咎めたくて言ってるわけじゃありません。むしろどんな人にも嫌悪感を示さないなんて逆に心配です。
僕は親しい間柄の人から「人の好き嫌いがはっきりしてる」って言われるので、きっと人に対する嫌悪感を抱くことは多いほうだと思います。
嫌いな人との接触を避けられれば問題ないですが、「この人嫌い」と思った相手が仕事関係だとか、学校のクラスメイトだとか、ましてや一緒に住んでる家族だったりしたら、そう簡単にいきませんよね。
でも、ただ我慢するだけではストレスが溜まる一方です。
もちろん趣味とか全く別のところで発散する方法もあるんですが、根本解決にはならないですし、経験上嫌いな人の嫌いな部分って自分でも持ち合わせてることが多いんですよね。
他人に嫌悪感を抱くことが多いってことは自分の嫌いなところも多いのかもしれない...。
因果応報じゃないですけど、回り回って自己否定してるみたいになる気がします。
どうせなら嫌いな人の存在で得する方法ないかなあと思って、「そういえば方法あるじゃん」と思いついた(無意識にやってたことに気づいた)のでご紹介します。
嫌いな人にはあだ名をつける
僕は「この人嫌いだなあ、けど接触は避けられないなあ」と思ったときはソウルネーム(心の中でだけ呼ぶあだ名)をつけるようにしてます。あだ名は何でもいいわけではなく、なんとなく以下のようなルールでつけてます。
①直接悪口ととれるような名前にしない
②その人の嫌いな部分をポジティブにとらえた言葉に言い換える
①直接悪口ととれるような名前にしない
これはは鉄則です。悪口ととれる名前だと普通に嫌悪してるのと一緒ですから、結局嫌な気持ちになっちゃいます。
②その人の嫌いな部分をポジティブにとらえた言葉に言い換える
こちらがキモです。嫌いだなと思う部分をただの特徴として捉えたときに何に似てるかを考えます。短所をうまいこと長所のように言い換えるイメージです。長所とまでいかなくても悪いイメージを持たない言葉に言い換えられれば十分です。隣の部屋は相撲部屋
具体例を一つ。 僕は壁の薄いアパートの3階で暮らしていますが、右隣の部屋の人の足音がとにかくうるさいです。 ドスドスドスドスと低い音が昼夜問わず響いています。 下の階の住人からも苦情が来てるようで時々管理会社からその旨のメールが送られてきます。 しかし改善される様子はなく、現在僕は在宅勤務中なのでさすがに気になります。
そこで僕は隣の住人に「ドスコイ先輩」というソウルネームを授けることにしました。朝方に足音が聞こえると「あ、稽古が始まった。四股踏みかな?」、夜中に聞こえると「今日も遅くまで励んでるなあ。お疲れ様です!」って考えます。
実は何も状況は変わってないのに、ドスコイ先輩にだんだん親しみを持てるようになりました。
最後に
実はこの方法に気づくきっかけをいただいた記事がありまして、導入部分では上手く差し込むことができなかったのでこちらに貼り付けておきます。
本記事で言いたかったのは何かを変えたければまずは視点を変えてみるといいということです。
見方一つ変えるだけで嫌いだった相手をなんだかかわいい存在にすることだってできちゃいます。
具体例としてちょうどよかったのでドスコイ先輩を召喚しちゃいました。話したこともないのに勝手に使ってごめんね。
僕は自分自身も含め、人の本質はそう簡単に変わらないと思ってます。
でも考え方は一つの技術なので身につければいろんなことに使えます。
この「考え方を変える」ことについてはまた別の記事でお話しできたらなと思ってます。
今回はこれで以上です。ここまで駄文にお付き合いくださった方、ありがとうございました。
追記
記事投稿した後で、ふとこの記事タイトルを検索したところ、同じこと書いてる人見つけました!全然違うところで同じことを考えてる人がいるってなんか嬉しいですね。
「何がわからないのか、わからない」の正体は情報過多
はじめに
★「前置きはいいから早く答えをくれ」な人はこちらへスキップ
みなさんの周りには、どんなに説明しても理解してくれない、「何がわからないの?」と聞いても答えられない人っていませんか?
どんなに時間をかけて説明してもらっても、どうしても理解できない。 むしろ説明されればされるほどわからなくなる状態に心当たりのある方はいませんか?
すみません、どっちも僕のことです...。
この記事の執筆時点で僕はまだ社会に出て3年目なのですが、一度転職を経験しています。
転職前の職場での自分は、まさにこの状態でした。
自分ではなんとか理解しようと努めているのに説明を受ければ受けるほどに混乱し、「何がわからないの?」と聞かれても答えられませんでした。
まさに「何がわからないのか、わからない」状態でした。
僕自身もですが周囲も「これだけ説明してるのになぜわからないのか、わからない」といった状態でお互い疲弊して、魔のループにはまっているようでした。
僕はその後、同業他社に転職しているんですが、仕事で必要な知識は割と近しいのにこの魔のループには今のところ陥っていません。
別に仕事の仕方は変えてませんし、以前のほうがよっぽど努力してたと思います。
あの頃はどうして「わからない」から抜け出せなかったのかずっと考えていたんですが、自分なりに答えが出たので説明させていただきます。
「わからない」には2種類ある
実は「わからない」には以下の2つの種類が存在します。
①理解するために必要な情報が不足しているため、わからない
②情報が多すぎて整理しきれないため、わからない
①も②も同じ「わからない」ではありますが、「理解する」ための方法が真逆です。
①「理解するために必要な情報が不足しているため、わからない」の解決方法
こちらは簡単です。なぜならこれは質問可能な「わからない」だからです。 調べるなり、人に聞くなりして不足してる情報を埋めればOKです。
その道の玄人ほど①の「わからない」の比率が高いです。 なぜなら前提知識で「理解する」ための骨組みをすでに持ってるからです。 記述式問題より穴埋め式問題への遭遇率が高いというイメージでしょうか。
②「情報が多すぎて整理しきれないため、わからない」の解決方法
こちらがいわゆる「何がわからないのか、わからない」です。
情報の整理が追い付かずに頭がショートしたような状態です。①に対して②は質問できない「わからない」となります。
初心者ほど②の「わからない」に遭遇しやすいです。
なぜなら整理が必要なこと = 知らないことが多いからです。
解決するには、より大事な情報のみに減らしてもらう必要があります。 自分一人で情報を整理するのではなく、自分よりわかってる他人に整理してもらうことが必須です。 だって前提知識がない初心者に何が大事でそうでないか判断できるわけないじゃないですか。
この「わからない」に遭遇したら、説明してくれている人に「わからないことが多すぎて頭が整理できないので、もっとざっくりと概要から説明してもらえませんか。」と情報を減らして説明するように頼んでみてはいかがでしょうか。
最後に
「はじめに」を読み飛ばした方は読まなくて大丈夫です。
前職場で僕が「わからない」から抜け出せなかったのは、教える側と教わる側の間の「わからない」に対する認識のずれが原因でだったのだと今では思っています。 情報が多すぎて混乱している人間に、もっと情報が必要だとさらに情報をインプットし続けてしまったのです。 それじゃあいつまでも「わからない」ままだよね。 今思うと当然ですね。
この結論だと「転職しなくてよかったのでは?」と思われる方もいるかもしれません。
僕もこの結論に至った時よぎりました(笑)。
でも前の職場という閉鎖空間から抜け出して、俯瞰して状況を捉えることができたからこそ、気づけたことだと思います。
今の上司は説明してくれる時に「○○は知ってる?」と教わる側の前提知識の把握から入ってくれます。 情報は多ければいいというものではない、理解可能な適切な情報量に調整してあげることが教える側の役目だということをわかってるんだと思います。
僕はあの時、生きるために逃げ出しました。
今だからこそタラレバな話もできますが、当時の僕にそんな余裕はなかった。
そして外に逃げ出して初めて、居場所になりうるところは他にもあるということに気づけたんです。
なんか話が逸れてきたので、僕がだいすきな漫画の一つ『銀の匙』より、校長先生のセリフで締めたいと思います。
「生きるための逃げは有りです。有り有りです。」
以上、つたない文章で失礼しました。