「かわいい」は補い合うためにある
はじめに
先日、一緒に暮らしている恋人が誤って洗濯バサミをまとめていたカゴをひっくり返してしまいした。 いじけた風になりながら拾っている彼女を見て、僕は「かわいいな」と思いながら、拾うのを手伝いました。
このとき、ふと思うことがありました。
もし自分に余裕がない時だったら、はたして「かわいい」なんて思っただろうか。
手伝うどころか、イラついてしまうのではないか。
このことから今回の仮説を思いつきました。 今回は「かわいい」とは何かについて考えてみたいと思います。
今回の仮説
今回の仮説は「かわいい」という感情は、
余裕のある個体が支援の必要な個体を認識し手助けすることで、
「かわいい」の役割
僕が調べたかぎり、「かわいい」という感情が何なのかは、まだ研究途上にあるようでした。 ただ、何をかわいいと感じるかは個人差や状況にも左右されるものの、かわいいと感じたときの心情や誘発行動には、傾向があるようです。
まず、「かわいい」は”快”の感情であり、そばに置きたい、見つめていたいという接近動機付けを伴い、世話したい、手助けしたいというような社会的交流を促進する効果があるそうです。
「かわいい」という感情は常に自分以外の何かに向けらるものであることから、他者との関わり合い、集団生活上で発生した感情である可能性が考えられます。
また、世話したい、手助けしたいなどの他者を支援したいという欲求を誘発していることから、「かわいい」の対象を支援すべき存在と認識していることがわかります。
このことから、助けが必要な個体をと認識し、支援することが「かわいい」の役割なのではないかという仮説が浮かびます。
あかちゃんや小動物のような比較的弱い立場のものに限らず、「かわいい」を見出すことができるのは、「手助けが必要かどうか」で判断しているからと考えると説明がつくのではないかと思います。
「かわいい」の判定基準
では、どうやって「支援の必要な個体」を見分けているのでしょうか。 ここからはわりと僕個人の考えですが、僕が思うにそれは「不完全さ」にあるのではないかと考えています。
例えば視覚的な「かわいい」でいうと、人は丸っこいものをかわいいと感じる傾向があるそうです。
あかちゃんや小動物、キャラクターなど確かに一般的にかわいいとされるものには、丸っこいものが多いように思います。 ただ、「丸」よりも、「っこい」のほうが重要なんじゃないかと僕は考えています。
あかちゃんの顔は丸っこいですが、完全な真円・球体ではありません。 僕個人の感覚ですが、完全な丸にはどちらかというと「きれい」とか「美しい」という感覚を抱きます。
この完全な丸の基準からのずれを不完全さとして認識しているのではないでしょうか。 かわいい柄やファッションだって、美しさの基準から少し崩すことでかわいさを生んでいるのかもしれません。
もちろん、何をもってして完全であるとするかは難しいですが、それが「何をかわいいと思うか」に個人差を生んでいるとも言えます。
「かわいい」は他者を思いやる感情
人間は元来楽をしたがる傾向があります。 赤ちゃんは美人(左右対称な)顔を好む傾向がありますが、それは左右非対称のものよりも視覚情報が単純になるため、脳に負担がかからないからとされています。
この左右対象なものを好む傾向は大人になってからも続きます。 しかし、不完全なものを好む「かわいい」は、この趣向に背いていることになります。 他人の手助けや世話をして、わざわざ面倒な道を選ぼうとする感情に見えます。
しかし、そうまでして他者と関わろうとするのは、人間が集団を形成することで繁栄してきたからなのだと思います。 そもそも「かわいい」の語源は「かわいそう」の意味の「顔映ゆし(かほはゆし)」であるとされています。
「かわいい」とは、他人に同情し、誰かのために何かしてあげたいという思いやりの感情と言えるかもしれません。 そう考えると「かわいい」ってなかなか素敵な感情だなと思います。
また、僕が恋人に対して、もし余裕がないときだとかわいいと思わないかもしれないと感じたように、自分に余裕があって初めて「かわいい」は成立するのだと思います。 もしかわいいと思えるものがないときは、まだ自分に余裕がないので自分のことに専念すべきときなのかもしれないですね。
以上が僕が考えた「かわいい」についてでした。 あんまり上手くまとめられませんでしたが、ここまで考えたという区切りとして記事にさせていただきました。
それでは、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。