世界のぜんぶが書いてある本、ない?

普段自分が考えてること、疑問に思ってることを検索してみても意外と答えが見つけられないので仮説を立てて自分から発信してみることにしました。ブログタイトルは、僕のだいすきな漫画『せんせいのお人形』のセリフです。(勝手に使ってます、ごめんなさい。)

漫画『せんせいのお人形』のすすめ

はじめに

今回の記事では漫画『せんせいのお人形』の紹介をさせていただきます。 ブログ概要にも書いてますが、本ブログのタイトル『世界のぜんぶが書いてある本、ない?』は『せんせいのお人形』の作中のセリフです。

この作品をきっかけに「自分が本当にやりたいこと」に気づき、その一環として本ブログを立ち上げました。 僕という人間の価値観に多大な影響を与えてくれた、だいすきな漫画の一つです。

かねてより書きたかった記事ですが、2020年11月27日に第4巻が無事に発売されましたので、いいタイミングだと思い、今回書かせていただきます。

ネタバレは極力抑えるように心がけますが、先入観なしに読みたい方は漫画アプリcomicoにて全話無料(CM視聴等の制限あり)で読むことができますので是非! www.comico.jp

また、執筆現在4巻発売直後のため発売記念として以下の各種電子書籍サイトでも第1巻まるごと試し読みできますので、とりあえず第1巻だけ読みたいという方はこちらでご一読ください。



↓↓↓以降ネタバレ含みます↓↓↓



『せんせいのお人形』というタイトルについて

このタイトルを見てホラーやアダルトなものを想像される方がいらっしゃるそうです。 確かにタイトルだけだとそう捉えてしまう可能性も否めませんが、読んでみると「このタイトルしかありえない!」と僕は思いました。 あくまで僕の解釈ですが説明させていただきます。

本作『せんせいのお人形』のタイトルの意味は

「人形のように生きていた私を人間にしてくれた、せんせい」  
だと考えます。 もちろん他にも意味を含んでいるでしょうが、一言で言うならこれかなと思います。

この説明からわかる通り、主人公は 私=スミカ と せんせい=照明さんの2人となります。 タイトルの『せんせい』が『先生』ではなく、ひらがなが使われているのは照明さんの職業が高校教師であり、『教師』としての『先生』に限定する言葉ではないため、「せんせい」とひらがな表記されているのだと思います。



あらすじ

さすがにタイトルの説明だけだと、具体的な物語の流れが全く分からないと思うので、comicoの公式ページのあらすじを参考にあらすじを軽く説明させていただきます。

身寄りがなく親戚中をたらい回しにされていた女子高校生・スミカは、高校教師である照明に引き取られることになった。 礼儀作法どころか基礎的な生活習慣すら身についていないスミカを見て、照明はスミカに宣言する。

「おれは教育するよ、君を」

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以上が第1話のあらすじとなります。



教育とは、学ぶとは何なのか

本作の魅力はいくらでもあるんですが、一つだけ紹介させてください。

スミカは照明さんとの出会いを発端に、自分の外に世界があることを知ります。 そして自身の世界を広げ、自分の道を歩み始めます。 もちろんスミカにとって照明さんは外の世界の存在を教えてくれた『せんせい』なのですが、照明さんを含めた周囲の人々もまた、スミカから影響を受けて変わっていきます。 スミカもまた誰かにとっての『せんせい』になりうる存在なのです。

このあたりが如実に表れる場面で本ブログタイトル「世界のぜんぶが書いてある本、ない?」というセリフも登場します。

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最初は『人形』と『せんせい』だった二人の関係がどう変化していくのか。 読者はその行く末を見守っていくことになります。



最後に

今回はいつもの仮説を立てる記事ではなく、僕のだいすきな漫画の紹介をさせていただきました。 補足事項として『せんせいのお人形』の既刊情報を載せておきます。

※2020年11月29日時点


そう、実は紙媒体による4巻以降の販売予定は現時点ではございません。 僕の中ではマンガ大賞*1獲れるレベルだと思っているので、「この本が世に広まらないなんてあってはならない、自分にもできることはないか」という思いもあってこの記事を書いています。

僕は現在独身ですが、もし結婚して子供ができたり、誰かを教育する立場になったら『せんせいのお人形』を教科書にしたい、そう思えるような作品です。 僕はこの漫画を生きていくための教科書の一つとして自分の本棚に添えたいんです。

漫画の紹介記事を書いたのは初めてで、そもそもブログ自体始めたばかりで、うまく魅力が伝えられたでしょうか。 自分がだいすきなものについて話すときほど、自分自身の価値が評価されるようですごく怖いです...。 少しでも読んでみたいと思ってもらえたらうれしいです。

今回のお話は以上です。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

優柔不断な人は懐が深い

はじめに

以前書いた記事の中で、「判断材料となる情報が多すぎると人は決断できなくなる」と言及しました。 zeppekikun.hatenablog.com

この「決断しなければならないのに、なかなかできない」状態って、傍から見ると優柔不断な人に見えるのかなと思います。 僕も決断を下すまでに時間を要することが多いので、優柔不断な方だと思います。

優柔不断って一般的に悪い意味で使われることが多いですが、実はすごくいい側面もあるんじゃないかと気づいたので、今回お話しさせていただきます。



今回の仮説

今回の仮説は、優柔不断な人とは

多角的に物事を捉えることができる懐の深い人   
なのではないかというものです。



優柔不断な人

僕の身近に僕の目から見て「優柔不断だなあ」と思う人Aさんがいます。 Aさんは外食のメニューを選ぶとき、洋服屋さんで服を選ぶとき、すごく時間をかけて吟味します。 僕も同じく結構迷っちゃうタイプで気持ちがわかるので、時間かけて考えてもらっても大丈夫なんですが、本人は自身の優柔不断なところを気にしているようです。

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一方でAさんの周りにはいつも人が集まってるように思います。 Aさんとおしゃべりしたくていろんな人がやってきます。 お菓子を持ってきて餌付けしてくる人もいるぐらいです。

その様子を見てて僕は思いました。 「優柔不断である」ということは「物事をいろんな角度から捉えている」ということなのではないか。 「物事をいろんな角度から捉えている」ということは「いろんな人の視点に立つことができる」ということなのではないか。 そして、「いろんな人の視点に立つことができる」からこそ、「許容範囲が広く、いろんな人を受け入れることができる」のではないか。

そもそも自他共に認める変わり者である僕を受け入れてくれてる時点で、めっちゃ懐深いじゃん...。



決断力がある人

もう一人、僕の知り合いBさんを紹介します。 Aさんとは対極的にBさんはめちゃくちゃ決断が早いです。 僕とAさんが昼食をとる場所を決めかねていると、代わりに即決してくれます(笑)。

Bさんは決断が早いので行動も早いです。 仕事もテキパキとこなします。 まじかっこいい。

Bさんは買い物もめちゃくちゃ早いんですが、よくよく見てみると全く値段を見ずに買い物をしている....! 本人いわく、レジで合計金額を知ってから「あれ、何が高かったんだろう?」て思ったりするらしいです。

僕が思うにBさんの決断の早さは情報量の遮断にあると思います。 Bさんは買い物の際に「ほしいか、ほしくないか」だけに判断材料を絞ることで決断速度を上げているんだと思います。 そんなBさんは結構金欠になりがちですが、「欲しいものを手に入れる」という一番の優先事項は達成できているので、特に後悔はしていないようです。



優柔不断だからこそできること

今回は僕の知り合いのお話を交えながら「優柔不断な人」について考えてみました。
例のごとく記事を書く前にググったんですが、やはり「優柔不断の克服方法」や「決断力をつける方法」のような内容の記事が多く、優柔不断はマイナスなイメージが一般的なようです。「やはり」なんて言ってる時点で僕自身にも「優柔不断」にマイナスなイメージを持つ固定観念があるみたいですね...。

今回のお話で「優柔不断な人」「決断力がある人」それぞれにいいところがあることが伝わっていたらうれしいです。

それでも「優柔不断な自分を治したい」と思う方もいらっしゃると思います。 僕もそう思うことがあるので気持ちはすごくわかります。

僕は「優柔不断を治す方法」を知らないですし、治すことが正しいかどうかもわかりません。 ただ、僕の持論ですが今の自分を否定しても、自分を変えることはできないと思います。 僕がかつてマイナス思考な自分を受け入れたように、現状の自分を受け入れた上で、どう上手く利用するかを考えたほうが楽なんじゃないかなと思います。

きっと「優柔不断を治すこと」は手段であって、広い意味で目的は「自分のことをすきになりたい」ということなのではないでしょうか。 自分のことをすきになるには、まずは現状の自分を受け入れるのが素直な選択な気がします。 優柔不断な方であれば、その懐の深さでご自身のこともきっと受け入れられると思います。

まとまりのない文章になってしまいましたが、スヌーピーのセリフで締めてお茶を濁したいと思います。

「配られたカードで勝負するのさ。それがどういう意味であれ。」

今回のお話は以上です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

正論の皮をかぶった根性論

はじめに

今回のお話には僕が嫌っている人の話が含まれます。
そのため、感情的になってしまう部分があるかもしれませんのでご容赦ください

僕が転職する前の会社でのことです。 当時仕事がうまくいっていなかった僕は、上司にこのまま仕事をやっていけるかとても不安だということを話したことがあります。 その時に上司から返ってきた言葉は

「そんなこと言ったってやるしかないでしょ」
でした。僕はそのとき何も言葉を返せませんでした。

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この言葉は一見理屈の通った正論のように見えますが、よくよく考えてみると人間の本能や感情を無視した暴論=根性論ですよね。

字面からはわかりにくいですけど、『根性論』って実はすごく理性的な考え方なんですよね。 「理性的に正しいから、感情を押さえ込んで行動しなさい」ていうのが『根性論』なんです。

かつての僕の上司のように正論(っぽいもの)を振りかざして相手を黙らせようとする人のことをファッション正論マンと呼びます。(さっき考えました。)
※理詰めで人を追い詰めることを『ロジカルハラスメント』というらしいです。

今回は『正論』について考えてみたいと思います。



今回の仮説

今回のテーマは

『正論』とはなんなのか  
についてです。
そして今回の仮説は、
  • 『理性』だけで判断した論理は『感情』を無視した『根性論』である。  
  • 『理性』と『感情』の両面から見て納得できる論理こそ『正論』である。  
というものです。



僕が思う『本当の正論』

ファッション正論マンたちは『理性』だけが正しく、『本能』や『感情』は意志の弱い人間の持つ陳腐なものだと思っているようです。 そのため、感情的な観点を考慮せずにものを言ってきます。

しかし、僕が思うに本当に正しい論理というのは理屈だけでなく人間の感情も考慮して考えるものだと思います。 理性と感情の両方の理にかなってこそ正論だと僕は思ってます。

例えば、ある朝、学校や会社に遅刻しないために今すぐ起きて準備しないといけないとします。 しかし「遅刻してはいけない」という理性より「まだ寝たい」という感情に負けてしまうこともあるでしょう。 これってそんなにおかしいことでしょうか? 「遅刻するには起きるしかないでしょ」と言われれば、間違いではないとは思いますが、「寝たい」という欲求(感情・本能)を度外視するって偏見ですよね。

そもそも人間には『本能』があり、それに基づく『感情』があり、その先に『理性』があります。 あくまで『理性』も『本能」の一部であるということです。 『理性』は人間の進化の過程で獲得した『本能』の一つであるという考えの研究も実際にあるようです。 ikedanobuo.livedoor.biz そう考えると理性の観点だけで見た論理が正しい論理(=正論)なわけないですよね。



「理性が正しい」も人間の本能

昨今、論理的思考の重要性が注目されていますが、論理的思考というのは別に感情を取っ払って考えることではないはずです。 そこをはき違えて理屈だけで相手を責め立てるのは卑怯だと思います。

ではなぜ、僕は上司に理詰めされて言い返せなかったのか。 理詰めにされると何も言えなくなること、みなさんもないでしょうか。

先ほど紹介した記事で言及されていましたが、人類は弱い個体が血縁を超えた協力で集団を維持するために『理性』を獲得した可能性があります。 『理性』は個人の主観に左右されない論理なので大きな集団を形成するうえでの指針になりえたということです。

以前書いた記事で言及した通り、人間には集団を形成したがる習性があるため、集団形成に密接にかかわる『理性』が無条件に正しいと思ってしまうのも人間の本能なのかもしれません。



もう令和なんだから

今回は僕が考える『正論』についてのお話でした。 上手く伝えられたでしょうか....。

ちなみに、最初に出てきたかつての上司にも僕が授けたソウルネームがあるんですが、個人情報を含むため伏せておきました。 zeppekikun.hatenablog.com

「理性が正しい」という人間の本能があるとするなら、僕の考える正論は本能に逆らう行為になるのかもしれません。 そもそも『理性』と『感情』の両立は言うほど簡単じゃありません。 だからこそ今でも根性論が根強く残っているんですから。

とはいえ平成の時代も終わって、もう令和の時代になっています。 そろそろ根性論はやめて、人間には感情があるということを前提に物事を考えていく必要があるのではないでしょうか。 そうしなければ世の中全体のストレスの総和は一向に減らないと思います。

カナダのトルドー首相だって5年前にすでに言ってました。 内閣の半数を『女性』に指名した理由を聞かれたときに彼はこう答えました。

「Because it's 2015!(だって、もう2015年じゃないか!)」
tabi-labo.com

今回はとりとめのない内容になってしまいました。 つたない文章を書いておいて申し訳ないですが、僕の伝えたかった思いの一片でも伝わっていれば嬉しいです。

今回は以上です。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

「めんどくさい」は脳のキャパオーバーのサイン

はじめに

前回の記事を投稿してから少し間が空いてしまいました。 ネタ切れなのではなく、書きたいネタはたくさんあります。 書きかけの下書きもかなり溜まってます。

書きたいことがたくさんあることは一見いいことのように思えますが、書きたいことが同時にたくさん浮かぶと意外とどれにも手がつかなかったりします。 やることがたくさんあると「めんどくさい」と思ってやる気がなくなっちゃうんですよね。 言い訳をしたいのではなく今回は「めんどくさい」という感情がテーマです。

本当は別の記事を投稿しようと下書きを途中まで書いていたのですが、書きたいことがまとまらずそれを整理して書き切るのが「めんどくさい」と思ってしまったんです。 そこから「『めんどくさい』ってなんだろう」と考え始めて、今回の記事を書くに至りました。



今回の仮説

今回のテーマは

「めんどくさい」という感情の正体
です。
そして今回の仮説は、「めんどくさい」という感情は
処理が追い付かない量の情報で、キャパオーバーしそうなときの脳からのサイン
なのではないかというものです。



いかに購入の”面倒臭さ”をなくすかが商品陳列のカギ

僕がよく「めんどくさい」と感じる場面の一つに買い物があります。 目ぼしいものがなくて買わないこともありますが、欲しいと思ったものがたくさんあった場合でも買わないことがあります

あれも欲しいこれも欲しいとなっても財力的に全部買うことはできません。 そこで欲しいものの中から購入するものを選定しなければなりません。 しかし、金額とかデザインとか量だとか、選択肢が多いと考えるべき情報がその分増えてしまいます。 するとだんだん選ぶのがめんどくさくなって、結局何も買わずに帰ってしまいます。 みなさんもこんな経験ないでしょうか。

実は商品の陳列法の一つとして「陳列量を調整する」というものがあります。 www.fmsnet.co.jp 商品を詰め込んでたくさん並べすぎると、かえって分かりにくく、選びにくい印象につながるのだそうです。 他にもいろんな陳列法があるようですが、僕が思うに多くの陳列手法には、いかに購買意欲を下げないようにするか=いかに「買うのがめんどくさい」と思わせないようにするかという観点が共通して存在するような気がします。



「めんどくさい」という感情の役割

何に対して「めんどくさい」と思うかは個人差もあると思いますが、そのときのコンディションでも変わると思います。

例えば、朝の寝起きで頭が覚醒しきってないとき、仕事や勉強が忙しくて余裕がないとき。 普段ならめんどくさいとは思わないルーティンワークでも「めんどくさい」と思ってしまうことが僕にはあります。

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逆に、昨晩ぐっすり眠れて気分がいいとき、暇を持て余してるとき。 普段なら「めんどくさい」と思ってやらないことも、やろうかなと思えたりもします。

何か統計を取ったわけではないので、皆さんに当てはまることなのかは分かりませんが、脳に余裕があるときほど「めんどくさい」という感情は湧きづらいのではないかと思います。

もしかすると「めんどくさい」という感情には情報過多による頭のショートを未然に防ぐ役割があるのかもしれません。 そう考えると「めんどくさい」という感情は決して悪いものじゃないと考えることができますね。



「めんどくさい」 と付き合っていく

今回は「めんどくさい」という感情がどういう存在なのかについて考えてみました。
今回の記事を書く前に「めんどくさい」の原因についてググってみました。 ヒットした記事をいくつか読んだんですが、原因を複数に分類して書いてあって「全部読むのめんどくさっ」と思って読むのやめちゃいました…。

仮説を立てる場合、根拠となる情報を提示する必要があるので、下調べはそれなりにしないといけないと思うのですが、脳が「これ以上は無理…!」て言ってるんだから仕方ないですね(笑)。

以前書いた記事で言及しましたが、僕はADHDという発達障害を持っており、平均的な人に比べて一度に考えられる情報量が極端に少ないです。

そのため非ADHDの方に比べると面倒臭がりかと言うと、そうでもないです。 むしろ思い立ったときには行動に移してしまってることが多いです。 そして行動を起こした後で行き詰まって、面倒な道を選んでいたことに気づいて後悔したりします。

このことから、「めんどくさい」という感情は脳の作業メモリ容量に多少の余裕がないと発生しないと言えるのではないでしょうか。
つまり、「めんどくさい」と思えるということは、まだ脳のキャパオーバーを回避できる状態にあるということです。

もし何かに対して「めんどくさい」と思ったときは、「脳の許容情報量の限界が近いのかも」と考えて、一旦休憩を挟んだり、やることを減らしてみることも一つの方法なのかなと思います。

今回のお話は以上です。
ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。

過密の解消がウイルスの生態系的役割

はじめに

今回の仮説は僕が考えたわけではないんですが、すごく面白いと感じたので紹介させていただきます。
(人によっては今更?ていうお話かも....)
今回お話しすることはこちらの番組(2020/07/12放送)で紹介されていた内容を主に参考にしました。 www.nhk-ondemand.jp ※今回の仮説を番組内で明言していたわけではなく、ウイルスが自然界で担う役割の一例として紹介されていただけです。

新型コロナウイルスが世の中に知れ渡ってある程度時間が経ち、密を避けるとか手の消毒とかが、もはや日常になってきている気がします。 f:id:zeppekikun:20201023232809p:plain 新型コロナウイルスの殺傷力だけでなく、世の中全体の動きを大きく変えたという意味で誰もがウイルスの脅威を実感したと思います。

今回はこの新型コロナウイルスのことというより、『ウイルス』とは自然界においてどういう存在なのかに焦点を当てて考えていきます。



今回の仮説

今回のテーマは

自然界におけるウイルスの役割

についてです。

そして今回の仮説は

ウイルスには生物の過密を緩和する役割がある

というものです。



『ウイルス』=『病原体』ではない

『ウイルス』の定義についてWikipediaのページを貼っておきます。 ja.wikipedia.org 今回注目したい部分のみ掻い摘んで説明すると『ウイルス』とは、他生物の細胞を利用しないと増殖することができない存在を指します。(生物としての定義を満たしていない。)

つまり、ウイルスは生物なしには種を存続できないため、生物との共生が不可欠であり、ウイルスの種全体で見ると生物を殺傷する力を持つ種は稀なのだそうです。 ウイルスにとって宿主を殺すことは必ずしも理にかなっていないと言えます。

殺傷力の強い個体は宿主を殺してしまい、移動手段を失うので感染を拡大させる(=種を存続させる)ことができません。逆に言うと殺傷力の弱い個体ほど感染を広げやすいということになります。 つまり、長期的に見るとウイルスは弱体化していく傾向があるということになります。

これが新型コロナウイルスに対しても一部で唱えられていたウイルス死滅説*1の背景となります。



ウイルスが赤潮の解消に一役買っている

新型コロナウイルスの影響もあって、ウイルスの脅威に目が行きがちですが、ウイルスは自然界にとってなくてはならない存在でもあります。

その一例として赤潮があります。 赤潮とは大量発生したプランクトンが異常に密集することで起きます。 人間の立場に立つと漁業に損害をもたらすと言えますが、プランクトンたちにとっても異常な密集は酸素不足を生んでしまいます。 つまりプランクトンたちにとって過密は群れ全体の滅亡危機なのです。

ウイルスの中にはプランクトンに感染する種も存在します。 赤潮になるほどにプランクトンが密集すると、ウイルスの感染効率が上昇し、感染したプランクトンは死滅していきます。 結果的に赤潮(=プランクトンの過剰な密集)を解消する役割をウイルスが担ったことになります。 globe.asahi.com

「ウイルスによって過密が解消された」って、新型コロナウイルスの発生に対して我々人間が取った行動となんだか似ていますね。



新型コロナウイルスは”現代”だからこそ流行った可能性

※ここからは番組内で紹介された内容ではなく、僕の妄想です。

人間の世の中はどんどん便利になっています。 公共交通機関が発達して一人一人の行動可能範囲が拡大し続けています。 また、都市部に人口が偏り過密化も進行しています。 この一部に人口が密集し、各個体の移動範囲が広い状況はウイルスにとって好都合だったんですね。

群れを作って生活する生物って人間以外にもたくさんいますが、これらの生物たちには群れが大きくなりすぎること、過密になることを避ける傾向があります。

例えばミツバチは群れが大きくなると、新しい女王バチが生まれ、働きバチの一部を連れて群れから離れます。 そして新しい場所で新たな巣を作り、元いた群れとは別の群れを形成します。 このミツバチたちの行動を分蜂と言います。 syumatsu-yoho.com この分蜂は群れの大きさが一定を超えたときや、巣箱(人口のハチの巣)のスペースが小さくなってくると起きやすくなるそうです。

もしかしたら人間にとっての過密に対する退避行動が『いじめ』にあたるのかもしれません。 zeppekikun.hatenablog.com

そして、赤潮を発生させたプランクトンたちのように自分たちだけでは過密を防ぎきれなくなると、ウイルスの感染が拡大します。 そしてウイルスによって個体数の減少ないし強制的な群れの分散が起き、結果としてウイルスによって過密が解消される。 そんなメカニズムが生態系の中に存在しているのかもしれません。 あくまで妄想ですけど。



最後に

今回は『ウイルス』の生態系的役割について考えてみました。

ウイルスって一見人間にとって害しかなさそうに思いますけど、他の視点で見てみると全く違う印象を受けますね。 一つの視点だけで物事を捉えると歪な固定観念を生んでしまう可能性があることを改めて感じました。

たまには自分の置かれた状況を俯瞰して見てみるのも、新しい発見や異変に気づくきっかけになっていいかもしれません。

長くなってしまいましたが、今回のお話は以上となります。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

いじめっこは依存症患者

今回の仮説

前回の記事ではいじめの『標的』の選定基準について考えてみました。 zeppekikun.hatenablog.com 今回は逆に”いじめる側”に着目してみたいと思います。

今回のテーマは

なぜいじめっこは『いじめ』をやめられないのか

です。

そして今回の仮説は

いじめっこは”制裁行動”による『快楽』に溺れた依存症患者である

というものです。



『いじめ』と『快感』

前回も紹介した以下の記事では『いじめ』を脳科学的視点で捉えた見解が紹介されています。 僕が以前立てた「『いじめ』の根本原因は本能にあるのではないか」という仮説の裏付けにもなると思います。 edupedia.jp こちらの記事では脳内ホルモンに関しても言及されています。 人が集団を作り仲間意識を感じるとき、集団の中のはみ出し者を排除しようとしているとき、脳内ではある種の『快楽物質』が発生しているそうです。

今回注目したいのは後者の「いじめを行っている最中、いじめる側は『快楽』を感じている」という点です。 そして『快楽』を生み出している快楽物質はドーパミンという物質なのだそうです。

僕はこのことを知って「依存症に似てる」と感じました。 なぜなら依存症患者が依存行動の最中に脳内で分泌されている物質もまたドーパミンだからです。 いじめっこが誰かをいじめているとき、アルコール依存症患者がお酒を飲んでいるとき、脳内は同じ状態になっているのです。

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もし仮に『いじめっこ』=『いじめ依存症患者』なのだとすると、アルコール依存症や薬物依存症と同様に、いじめ依存症を治療するという観点もいじめ解決のためには必要なのかもしれません。

依存症とドーパミンについてはこちらの記事をご参照ください。 www.drp.ne.jp



「快感を感じる」=「生物本能的に正しいことをした」?

ここからは『いじめ』という制裁行動の先にある『快感』について考えていきます。

最初に紹介した記事にもありましたが、人が集団を作ろうとするのも、集団の中のはみ出し者を排除しようとするのも脳に組み込まれた機能です。 いわば人間が長い進化の過程で培ってきた経験則=本能なのだと思います。

そして、本能に従うことは『快感』を伴います。
言い換えると

『快感』を得られる行為 = 生物本能的に正しい行動

ということになるのではないでしょうか。 そう考えると、快楽物質の分泌は生物本能的に正しい行動への脳からの報酬であると捉えることができます。

本来、 ①生物本能的に正しいことをした→②脳から快楽物質が分泌→③気分がよくなる という時系列なのでしょうが、アルコールや薬物はこのメカニズムを逆手にとって、①をすっ飛ばして②を無理やり起こさせているといえるのかもしれません。

そう考えるとアルコールや薬物のように摂取しなければなりえない依存症より、いじめ依存症のほうが生物本能的に正しい分厄介な気もしますね。

今回の仮説は以上です。



本能には本能を

今回は『いじめ』をなくす方法について考える一環として、『いじめっこ』の存在について考えてみました。 毎度思うことですが、考えれば考えるほどに『いじめ』の根深さを感じます。

でも絶対に『いじめ』をなくすことができないなんてことはないと僕は思ってます。 確率論や多数決の法則があるように人間ってなぜか「多数派の方が正しい」という固定観念を持ってる気がします。 自分と同じ意見の人がたくさんいると、なんだかほっとしますよね。

多数決で物事を決めることは「より多くの人の意見を反映させる」と言えば聞こえはいいかもしれません。 しかし、「多数派の意見が正しい」ことって場合よっては全く信憑性がないと言えると思います。 極端な例えをするなら、「1+1の答えは2である」という人より「1+1の答えは3である」という人が多ければ、後者が集団内の常識になってしまうわけです。

「多数派の方が正しい」という固定観念もまた、人間が集団を維持していくために培った本能なのだと思います。 この本能を利用します。

もし『いじめ』=『依存症患者の異常行動』という認識を持つ人が多数派になれば、それが世の中の常識になります。 この認識が一般的になれば、いじめを行うことこそが集団からはみ出した行為とみなされて集団からいじめを排除しようという動きが生まれるかもしれません。

『いじめ』という”本能”に『多数決の法則』という”本能”で対抗するということです。 いわゆるハンムラビの「目には目を歯には歯を」というやつですね。 人類の進化の歴史そのものともいえる本能には、逆らうより受け入れてうまく利用する方が問題解決の近道だと思います。

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じゃあどうすれば『いじめ』を矮小化できるのか、この先にはまだたどり着けてないです...。 悪いとわかっててもやめられないのが依存症ですから、そう簡単にはいかないとも思います。 でも「『いじめ』をなくすことは理論上できる」とだけでも感じてもらえたならうれしいです。

いつか「『いじめ』は古い、ダサい」という感覚が広まった時代を迎えられることを目指して、これからも考えていきたいと思います。

今回のお話は以上です。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。

いじめの『標的』の選ばれ方

はじめに

以前、『いじめ』をテーマに記事を書きました。 zeppekikun.hatenablog.com こちらではいじめの原因について考えましたが、今回はいじめの『標的』について考えていきたいと思います。 前回同様『いじめ』をできるだけ俯瞰して捉え、網羅的に考えていきたいので、今回も具体的な解決方法にはまだたどり着かないと思います。



今回の仮説

今回考えるのは

いじめの『標的』の選ばれ方

についてです。
そして、今回の仮説は『標的』の選定基準は

①集団内からいなくなったときのデメリットが最も少ない
②集団内からいなくなったときのメリットが最も大きい

のどちらかであるというものです。



生存率の低い個体は囮に使われる

以前の記事で『いじめ』の原因は「ある生活空間において、その空間内で生活する個体数が生活可能な個体数の上限を超えたため」と仮説を立てたと思います。 言い方を変えて「群れの中で全員が生き残ることができない状態」になったとき、生物が取る行動の一例として以下の記事を紹介します。

miaoued.net

上記参照記事では、クアッカワラビーが天敵に襲われると、お腹の袋から子供を落として逃げるという生態が紹介されています。 この種に限らず自然界では群れが天敵に襲われた際に、群れの中の1頭が囮になってその間に他の個体が逃げるという生態を持つ種は結構存在します。

今回注目したいのは、囮の選定基準です。 クアッカワラビーの場合、生存できれば今後も子供を何匹も生むことができる母親より、きちんと育つかもわからない子供を犠牲にした方が生存戦略として理にかなっていると判断されたのです。 この例は本仮説の①集団内からいなくなったときのデメリットが最も少ない個体が選定基準になったと考えることができます。



人間界における生存能力

先ほどのクアッカワラビーにおける生存能力を人間に置き換えてみましょう。 人間世界における生存能力を、衣食住に困らず悠々自適に生活できる力=経済力としてみます。 以下のグラフは学校におけるいじめの被害者の成績(縦軸)と家庭の経済的地位(横軸)の分布を国別に示したものです。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/2020/01/29/data200129-chart01.jpg

ご覧の通り、多くの国では成績不良で貧困層の生徒の方がいじめの被害率が高いことがわかります。 このことも①の裏付けになるかと思います。

ところが、わが国日本ではむしろ成績優秀かつ富裕層の生徒がよくいじめにあっているようです。 このことはこの図の参照元の以下の記事でも言及されています。

できる子、裕福な子が標的になる、日本のいじめの特異な傾向

ここで注目してほしいのは、いじめの標的になっているのが成績や家庭の経済力が平均から外れている人間である点です。 日本という国が特殊ということではなく、たまたま日本では成績優秀かつ富裕層の生徒が少数派だったのだと僕は思っています。

そう考えると国別に分けたグラフも、結局は集団のスタンダードから外れた子がいじめの『標的』にされているのであって、どの国でも同じ傾向があると言えるのではないでしょうか。

集団とは、個体間の共通点を見出して群れを作るものだと僕は思っています。 つまり、集団の中の共通点を持たない個体は集団を形成するための障害になるということです。

この集団の中のはみ出しものを排除しようとする生態が、②集団内からいなくなったときのメリットが最も大きい個体が『標的』の選定基準になった例だと考えることができます。

今回の仮説の裏付けは以上です。



最後に

今回はいじめ『標的』の選定基準について、できるだけ網羅的に考えてみました。

これは完全に個人的な見解ですが、集団を形成する生物の中で人間だけを考えてみると、集団の中のはみ出しものを排除しようとする②の傾向が強い気がします。 いわゆる「出る杭は打たれる」というやつですね。

また別の記事で改めて取り上げるかもしれませんが、脳科学的観点から見て、人間は集団を作ろうとする本能を持ち、集団の結束力(仲間意識)が強いほど、『いじめ』の発生率が高まると言われています。 edupedia.jp

現生の世ではグローバル化・IT化が進み、誰もがいろんな地域へ移動したり、様々な情報を得ることができるようになってきました。
(コロナの件もあって人間の物理的移動は制限されたかもしれませんが‥)

言い方を変えると、誰とでも共通点を見出しやすい=集団を形成しやすい世の中になってきているとも言えます。 インターネットで世界中の人々と繋がることで、同じSNSを使ってるだとか、同じニュース記事を見ただとか、全く別の場所にいる人とでも共通点を見出して簡単に集団を作ることができるのが今の世の中だと思います。

むしろ、コロナの件によって物理的に人が集まって集団を形成しにくくなったことによって、よりインターネット上での集団の形成に固執する世の中になってしまったのかもしれません。

とはいえ、コロナの件は時間の問題だとは思います。 今回みなさんに考えていただきたいのは、集団の結束を高めることにはリスクが伴うということです。

僕も人のこと言えませんが、誰もが集団の中で逸脱しないように気を張って、集団の中ではみ出しものを見つけたら嬉々として攻撃しようとする、そんな傾向がどんどん高まっているように感じています。

この集団を形成したがり、集団の中のはみ出しものを排除しようとする生態を逆手にとって上手いこと使えないかなと僕も考えているんですが、なかなかいい方法が見つけられません。 この記事に少しでも共感してもらえたなら、いっしょに考えていただけるとうれしいです。

今回は以上です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。