”わからない”から行動できない
不正のトライアングル
「不正のトライアングル」という言葉をご存知でしょうか。アメリカの犯罪学者 ドナルド・R・クレッシー氏が提唱した理論をもとに、人が不正行為を起こす条件をモデル化したもののことで、
- 機会:不正行為が実行可能もしくは不正行為が発覚しにくい環境であること
- 動機:不正行為の実行を必要とする主観的事情があること
- 正当化:不正行為を正当化する主観的事情があること
の3つの条件がそろったとき、人は不正を犯してしまうのだとしています。
↓画像引用元↓
人が不正をするのはなぜか? 要素をモデル化した「不正のトライアングル」の紹介 | ディークエスト グループ
この理論はクレッシー氏が犯罪者への調査を通じて導き出した仮説で、この3要素が必要十分条件だという論理的な証拠があるわけではないと思いますが、感覚的には納得のいく3要素かなと思います。
本記事とは別のテーマで記事を書くために調べていたところ、この不正のトライアングルを知ったのですが、この3要素って不正行為だけでなく正当行為であっても同じことが言えるんじゃないかと思いついてしまったので、その勢いでこの記事を書いてみました。
今回の仮説「行動のトライアングル」
前述のとおり不正のトライアングルの3要素が揃うと人は不正を犯してしまうということですが、不正行為に限らず行動全般に適用して考えみると、
機会・動機・正当化の3要素が揃えば人は行動を起こすことができる
と捉えることができるのではないか、というのが今回の仮説です。
不正のトライアングルの説明を行動全般を含むような言い方にするならこんなかんじでしょうか。
- 機会:その行動を起こすための環境が整っている、または行動を起こすことが容易であること
- 動機:その行動をとるメリット・せざるを得ないプレッシャーがあること
- 正当化:その行動を取ることを正当化するような事情があること
名付けて「行動のトライアングル」です(適当)。
もっと僕の解釈を入れて簡単な言い方をするなら、
というかんじでしょうか。(「正当化」って名前が微妙ですが..。)
ここまでかみ砕いた言い方にしてしまえば、不正行為だろうと正当行為だろうと、同じ「行動」であると捉えて、行動するための条件として同じものを適用してよさそうじゃないですかね。
そしてこの仮説が正しいとすると、「やらなきゃと思っていても行動に移せない」というときの原因分析方法として、この「行動のトライアングル」が活用できるのではないかと考えています。
やったほうがいいのに、やりたくないこと
それでは具体例を出して本仮説の条件に当てはめてみたいと思います。
最近僕は仕事関係の資格を取ろうか考えています。以前から会社の上司にも資格取得を話題に出されていました。やったほうがいいのかなと思いつつも、人に言われてやりたくないという気持ちもあって、行動に移そうとはしませんでした。
しかし、今の配属先の仕事にも慣れてきて、最近自分の成長を感じないなと思うようになりました。そこで何か行動を起こしたいと思い、資格取得を少し前向きに考えるようになりました。
この「資格を取る」という行動について行動のトライアングルを当てはめてみて、思いつくことを書き出してみました。
※行動するための後押しになるプラス要素を青字、足かせになるマイナス要素を赤字にしてます。
行動目標:資格試験に合格すること
機会(コスト・難易度)
- 資格試験の申し込みはネットで簡単にできる。
- テキストを購入せずとも過去問などはネットで拾うことができる。
- 現在の自分の実力に見合う難易度の資格なのかわからない。
動機(メリット・プレッシャー)
- 仕事に活用できる知識が身につくかもしれない。
- 取得できれば会社から受験料と報酬金が支給される。
- 会社が資格取得を推奨しており、上司からもそのことについて言われる。
- 社内でも資格取得者が増えている。
正当化(デメリット・リスク)
- 不合格になったときに周囲に知られるのが恥ずかしい。
- 不合格になると受験料が支給されない。
- 不合格になったときに落ちるぐらいなら受けなければよかったと後悔しそう。
まず「機会」の自分の実力に合った難易度かどうかについては、過去問を解いてみればわかることなので、制限時間を設けずに解いたところぎりぎり合格点届くか届かないかぐらいの得点でした。難易度としてはちょうどよさそうです。
そして行動のトライアングル3要素のうち、僕が行動に移せないのは失敗時のリスクが理由として大きいことが見て取れます。なるほど、だから行動できなかったんですね。やれと言われるとやりたくないからではなかったですね..笑
それでは「正当化」のマイナス要素について対策を考えていきます。
まず「正当化」の1つ目「不合格を周囲に知られると恥ずかしい」については、資格試験を受けることを会社の人に言わないでおいて、もし合格したら報告することにしました。会社の人に受験意思を伝えることで逃げ場をなくし「動機」のプラス要素を増やすこともできますが、「動機」はすでに十分なプラス要素を持っているので「正当化」のマイナス要素を減らすことを優先しました。プレッシャーは大きすぎても行動のハードルを上げちゃいますからね。
続いて「正当化」の2つ目「不合格だと受験料が自腹になる」ですが、今回の目的は「お金がほしい」よりも「自身の成長のため」が自分にとっては大きいと思ったので、一旦優先度を下げることとしました。少なくとも受験料自腹になったとしても生活に困るということはないですし、「あわよくば受験料ただにできる」というおまけ的な要素だと捉えることにしました。
そして「正当化」3つ目の「落ちたら後悔しそう」ですが、行動目標を「資格試験に合格すること」から「受験申し込みをして、資格試験を受けること」に変更することで不合格がリスクにならないようにしました。僕が本当に欲しているのは資格取得というより、自己成長のために行動したという事実だと考えたからです。
目標が消極的すぎだろと思われるかもしれませんが、目標が行動の妨げになっては意味がないのです。
というわけで行動をとるにあたってのマイナス要素の対応策を考えた後の修正版がこちら。
※削除した要素には取り消し線、追加・修正した要素には下線を引いています。
行動目標:資格試験に申込をして、試験を受けること
機会(コスト・難易度)
- 資格試験の申し込みはネットで簡単にできる。
- テキストを購入せずとも過去問などはネットで拾うことができる。
- 現在の自分の実力に見合う難易度の資格なのかわからない。
- 試験問題の難易度は現在の自分のレベルに合っていそう。
動機(メリット・プレッシャー)
- 仕事に活用できる知識が身につくかもしれない。
- 取得できれば会社から受験料と報酬金が支給される。
- 会社が資格取得を推奨しており、上司からもそのことについて言われる。
- 社内でも資格取得者が増えている。
正当化(デメリット・リスク)
- 不合格になったときに周囲に知られるのが恥ずかしい。
- 不合格になったら恥ずかしいので、会社の人には受験意思は一旦伝えないでおく。
- 不合格になると受験料が支給されない。
- 不合格だと受験料が支給されないが、自費になっても生活に困るような痛手ではない。
- 不合格になったときに落ちるぐらいなら受けなければよかったと後悔しそう。
- 資格試験を受けることが目標なので、不合格になっても目標は達成できる。
これで行動のトライアングルの3要素の条件をすべて満たすことができました。ここまで考えて僕はやっと資格試験の申し込みをする決心ができたのでした。
わからないから、動けない
今回は人が不正行為を犯すまでのメカニズムのモデル「不正のトライアングル」をもとにして、人が行動を起こすのに必要な条件「行動のトライアングル」を考えてみました。
資格試験申し込むだけでどんだけ考え込んでんだって自分でも思いますが、これはあくまで一例ですので、やらなきゃとわかっててもどうしても行動に移せないというときの原因分析方法の一つとして考えていただけたらなと思います。
もちろん思い立ってすぐ行動できるならそれでいいんですけどね..。でもそれができないのなら、まずはなぜできないのか考えてみるのはありかなと思います。
原因がわかれば対処法も考えやすいですし、「わからない」といういちばん怖い状態から抜け出すだけでも気が楽になるんじゃないかなと思います。というかわからないから動けないのかもしれないですしね。
あ、それと今回のお話はあくまで、やるべきこと(正当行為)を行動に移すための話であって、不正行為を正当化しようとしてるわけじゃないのでご留意ください。不正のトライアングルも不正行為に走らないために、この3条件がそろわないようにしようねって話ですので。
というわけで、あまりまとまりのない内容でしたが、今回は以上とさせていただきます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
多数派でいることと盲目でいることは紙一重
はじめに
私事ではありますが、この度結婚することになりました。
結婚するにあたって婚姻届を提出することになると思いますが、現在の日本の法律では、結婚するには夫婦のどちらかがもう一人の姓に改名しなければなりません。(いわゆる夫婦同一姓制度。)
そして僕たちは彼女の姓を選ぶことにしました。正確に言うと僕たちはというより僕の希望でですが、彼女にも了承してもらっています。
今回は現在の結婚制度や実情に対して僕が考えたことを話していけたらと思います。
※「姓」という言葉は別称として「氏」「苗字」「名字」などがあり、法務省のHPでは「氏」が用いられてますが、ややこしいので今回は「姓」で統一してます。
日本における夫婦同一姓制度
まずは改めて結婚における夫婦の姓についての制度を軽くまとめておきます。
現在の日本では昭和22年の民法改正で定められた、夫婦は婚姻の際に夫または妻の姓を称することとする夫婦同一姓制が採用されています。ちなみに平成22年に法務省が行った調査によると、結婚後に夫婦で同一姓にすることを強いる国は日本だけとなっています。
※夫婦別姓を原則としたり、妻が結合姓になる国はあります。
夫と妻どちらの姓も選ぶことができるのは、男女平等の理念に沿った形となりますが、実際はほとんどの夫婦が夫の姓を選んでいます。平成28年度に行われた厚生労働省の調査では、平成27年(西暦2015年)に結婚した夫婦のうち96%が夫の姓を選んでいるという結果が出ています。夫の姓・妻の姓どちらも自由に選べるはずが、実際には妻の姓を選んだ夫婦はたったの4%しかいないのです。
夫の姓を選ぶのが”普通”
まあ、調べなくとも夫の姓を選ぶ夫婦が大半であろうことはなんとなく想像できます。僕の知り合いだと妻の姓を選んだ夫婦は一人もいないです。かく言う僕も自分が結婚することを意識するようになってから、妻の姓を選ぶ道の存在を初めて意識しました。
自分の姓が変わることについてどう思ってるのか、結婚する彼女に聞いてみたところ、正直変えたいとは思っていないそう。両親と違う姓になることを寂しくも感じるし、姓が変わることによる手続きも面倒なので夫婦別姓制度があるなら別姓がいいとのことでした。
でも、女性側が姓を変えるのが”普通”なので、結婚にあたって自分が姓を変えなければいけないという覚悟はしていたというのです。
このように、本来どちらの姓を選ぶかは夫婦の事情や価値観に合わせて自由に選ばれるべきことなのに、まるで夫の姓を選ぶのが当然という空気が流れているように思います。そんな実情に僕は疑問を覚えました。「みんなそうしてるから」と何も考えずにこのまま夫の姓を選んでいいものかと。
人によってはどちらの姓を選ぶかなんて、取るに足らないことかもしれませんが、僕はどうしても簡単には結論を出せなかったのです。
事実婚について
お互いの姓のまま過ごす方法としては事実婚があります。要は法的な婚姻関係にはならずに共同生活を続けるということですが、これにはデメリットが伴います。
まず夫婦(家族)であることを証明することが難しいです。事実婚だと保険加入や賃貸契約を断られることもありますし、もしパートナーが入院して家族以外面会謝絶なんてことになれば、家族と認められず面会を断られるかもしれません。僕が今同棲している賃貸物件の契約時にも結婚予定があるか確認を取られました。
また、もし子供が生まれた場合、自動的に母親の戸籍に入ることになり、そのままでは夫には親権がありません。(この法律も子供は母親の所有物としてるようでおかしいと思う。)
もちろん法律婚・事実婚どちらにもメリットがあり、デメリットがあります。僕らの場合は、法律婚したときのデメリットと事実婚にしたときのデメリットを天秤にかけて、やはり結婚はするべきだという結論になりました。
多数派でいることと盲目でいることは紙一重
僕と彼女のどちらが姓を変えたほうがメリットもしくはデメリットが大きいか、何度も考えて彼女とも話をしました。それでも両者に差異を見出すことができませんでした。
両親や結婚している友人にも彼女の姓を選ぶかもしれないということは話していましたが、みんなが口をそろえて「なんで?」と理由を求めてきました。結婚するために婚姻届を書いたことがある以上、妻の姓を選べることを知らないはずがないのに、考えたこともないというかんじでした。(もちろん僕も理由を聞かれるだろうと思って話してるわけですが。)
本当は他にも選択肢があるはずなのに、「みんなそうしてるから」「それが普通だから」と、深く考えることなく多数派を選ぼうとしてしまう、やはりそんな習性が僕を含め人間にはあるように思います。そして多数派でいることそのものに安心感を抱いてしまいます。
もはや多数派でいることは盲目でいることと紙一重なのではないでしょうか。
以前の記事でも同じことを言いましたが、多数決って論理的な決め方じゃないなと僕は思っています。例えば学校のテストであるひっかけ問題に生徒の過半数が同じ誤答をした場合、その回答が正解になるのでしょうか。そんなことないですよね。もしそんなことしたら本来の正解を回答した人たちは間違いだということになります。やはり多数決の結果と論理的な正しさは別のところにあるのです。
僕は理由なく夫の姓(=多数派)を選ぶことが怖くなりました。なんでも「みんなそうしてるから」で選んでいたら、何も考えられない人間になってしまうのではないかと思ったのです。
だからこそ、僕は妻の姓を選ぶことにしました。もちろん夫の姓を選んだほうがメリットがある、もしくはデメリットが小さいのなら、そちらを選ぶべきだと思います。でも、もしどちらを選んでも損得が同じなら、盲目にならないために少数派を選ぶべきだと僕は考えたのでした。
後悔しない選択より後悔する覚悟
今回は結婚制度に関して僕が考えたことを記録に残し、自分の選択に覚悟を決めるためにこの記事を書きました。
僕はあえて少数派を選ぶという考えのもと、妻の姓を選ぶことにしましたが、今後この考えが変わって妻の姓を選んだことを後悔する可能性ももちろんあると思います。でも逆に夫の姓を選んでいたとしても後悔する可能性はあると思います。
後悔しない選択をすることは理想ではありますが、現実的にはすごく難しいことだと思います。後悔しない選択をしようという信条は、もし後悔したらどうするの?というどん詰まりになる危険性をはらんでいると僕は思うのです。というか選択肢の中に”後悔しない選択肢”が必ずある保証がそもそもないですからね。
そこで大事になってくるのが”後悔する覚悟”なのではないかと思います。この考えは総合塾Fitの田尾先生の大学英語講座で教わったことなのですが、この選択をして自分は後悔するかもしれない、それでも自分でこの道を選んだのだという覚悟があれば、もし悔いることがあっても自分を納得させていけるのではないでしょうか。
覚悟という言葉が重苦しいのであれば、後悔してもいいと思える選択をすると言ってもいいかもしれません。僕はこの覚悟をもって妻の姓を選ぶという選択をしたいと思います。
今回は以上です。更新頻度低すぎですけど、細々と続けていけたらと思います。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
その分類、本当に必要ですか?
はじめに
なぜ分類したがるんだろう。
学生のころからなんとなく感じていましたが、ここ数年でこのことを強く意識するようになりました。
性別だとか出身地だとか、ある側面で他者をカテゴリー分けして、本人から得られる情報よりその分類の特徴こそ、その人の本質だと思い込んでしまう。人間ってそんな性質があるように思います。
僕は差別や対立の根本にはこの「分類」が存在しているように思うのです。他人を否定したり攻撃してくる人って自分と相手を違う存在であると区別してるのではないでしょうか。
今回は、僕たちが当たり前のようにこれらは異なるものだと線引きしてしまっている物事に対して、本当にその分類は正しいのか、そもそもその分類は必要なのか考えてみたいと思います。
今回の仮説
今回の仮説は、差別や対立の根幹には
自分と相手は異なる存在であるという分類が存在している
のではないか。
そして、その自分と異なる他者を多様性として受け入れるために必要なことは、多様性そのものを認識することではなく、
お互いの共通点に目を向け「みんな大して変わらないな」と思えること
なのではないかというものです。
今回の話にはこの仮説を裏付ける客観的な情報がほとんどありませんが、最終的にこういう落としどころに持っていきますよという意味で今回の仮説ということにしておきます。
「怒る」と「叱る」は同じ
みなさんは誰かに「叱られた」ことはあるでしょうか。
学校の先生や会社の上司、親だったり誰でもいいんですけど、「怒ってるわけじゃない」だとか「あなたのためを思って叱っている」なんて決まり文句を言ってくる人がいると思うんです。
彼らの中では「怒る」と「叱る」は別物であって、怒るのはダメだけど自分は叱ってるからいいんだよというのが彼らの言い分なのです。
ここで両者の言葉の定義を確認してみます。
goo辞書より。
- おこ・る【怒る】
の解説 (参照元)1 不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって―・る」
2 よくない言動を強くとがめる。しかる。「へまをして―・られた」
しか・る【𠮟る/×呵る】 の解説 (参照元)
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」
「怒る」の意味の一つとして「叱る」がありますね。
それに「叱る」の解説にあるように、他者のよくない言動を指摘して諭したいのであれば、声を荒げたり追い詰めるような言い方をする必要ってどこにもないはずです。よくないと思う点を指摘し、なぜよくないのか、どうするべきか説明してあげればいいだけですよね。
仮に本当に相手のことを思って叱ったとして、相手は「怒られている」のか「叱られている」のか区別がつくでしょうか。どちらも相手の言動を指摘して怒鳴りつけ、強く非難するような言い方をしていることには変わりないですよね。
ということは、怒っていようが叱っていようが相手が受け取るものって同じだということになります。いくら相手のためを思っていようとも、その相手から見て怒っているのか叱っているのか区別がつかないのであれば、それはもう「怒る」と「叱る」は同じだと言っていいのではないでしょうか。
彼らは怒りたくて怒っているだけなのです。そしてそれを正当化するために、自分たちは「怒っている」のではなく「叱っている」のだと、「分類」を駆使しているのです。
この「怒る」と「叱る」が同じだという話については、こちらの記事が面白かったので、併せてご参照いただけたらと思います。
「家族」や「結婚」を法が定義する
次に僕が最近読んだこちらの記事を紹介します。
概要は説明しますが、大変興味深い内容となっておりますので、ぜひご一読ください。
こちらの記事では「家族」を法で定義することの問題点を指摘しています。
現在の日本の法では、愛し合っているのに家族として認められず、引き裂かれてしまう人々がいます。
わかりやすいところでいうと、同性カップルという存在があります。彼らは同性同士のカップルであるがゆえに結婚が認められず、病気などの緊急時に同性パートナーは家族でないとされて面会を断られたり、家族でないと入居が認められない賃貸住宅に一緒に入居できなかったりします。
彼らは確かに愛し合っているのに、法によって「あなたたちは家族ではない」と残酷に引き裂かれてしまうのです。異性カップルの愛は本物で、同性カップルの愛は偽物だなんて、いったい誰が証明できるんでしょうか。
この時点で、現在の法で定められる「家族」の定義は、本当に正しいのだろうか、という疑問が浮かぶのではないかと思います。
例外のある分類に意味はあるのか
さきほど同性カップルを例に、法による「家族」の定義の問題を説明しました。では同性カップルの婚姻さえ認められれば、この問題は解決するのでしょうか。
答えは否です。他に結婚が認められない例として、一夫多妻や一妻多夫のような集団で愛し合う人々が存在します。血縁上の親や恋人以外の人と、友人として愛し合っている人たちだっています。
つまり、法における「家族」の定義をいくら改正しようとも、その定義に当てはまらない例外は存在してしまうのです。
こうなってくると、その関係が家族なのかどうか、結婚できるか否かを線引きすること自体が間違っている可能性が出てきます。さきほどの記事では、法が「家族」という定義を扱うことそのものの必要性を論じているのです。
僕の解釈も入ってますが、以上が参照記事の紹介でした。
相違点より共通点に目を向ける
ここまでの内容で、当たり前のように存在する言葉の定義や法による線引きに対し、その分け方は本当に正しいのか、線引きされた両者に本質的な違いがあるのかについて考えてみました。
人が他者を排除しようとするとき、そこには自分と相手は違うという線引きをしているのではないか、という考えに僕が至った理由がなんとなく伝わっていたらうれしいです。
僕は何も分類することそのものを悪いことだと思っているわけではありません。無数にある個体群をある側面に基づいてグループ分けすることで、全体を大まかに把握することができますし、任意の個体の特徴や性質を瞬時に予想することができます。
人間が物事を理解するうえで、分類は非常に有用なのです。というか人間は分類して整理しないとそもそも新しいものを理解できないそうです。
僕も無意識のうちに人をカテゴライズしているなと、この記事を書きながら改めて思いました。分類しようとしてしまうこと自体は本能的な部分ですし、実際大いにメリットもあるので分類すること自体を咎めることはできないです。
ただ、すでに分類されているものであっても、共通点を見出して分類をなくしていくことが、多様性を受け入れていく上では重要なのではないかと僕は考えています。
先の同性カップルの例でいえば、異性同士であろうと同性同士であろうと、お互いが愛し合っているという点では変わりないという視点を持てていたからこそ、筆者は両者を尊重できたのだと思います。
つまり、多様性を受けれられる人は、一人ひとりの違いを受け入れているのはなく、みんな大して変わらないという大まかな視点でとらえているのではないでしょうか。
このようなシンプルな考え方をしているからこそ、どんな価値観や思想に遭遇したとしても、自分の価値観の範疇として受け入れられるのかもしれません。
その分類、本当に必要ですか?
今回は、分類することが差別や対立を生んでいるのはないかという仮説をもとに、関連記事を紹介しつつ、僕の思う「多様性を受け入れること」について話してみました。
現代ってあらゆることを分類しすぎていると思うんです。物事を理解しやすくするために分類してたはずなのに、分けすぎて逆に煩雑になっちゃって本質が見えづらくなっている気がします。
分類は人が物事を理解するために欠かせないものですが、一方で分類はあくまで本質を理解する上での足掛かりでしかないと僕は思っています。理解のために一旦は分類したとしても、「違うと思ってたけど、こういう視点で見れば同じだよね」というふうに統合していくことで、より汎用的でシンプルな理解になっていくのではないでしょうか。
複雑すぎて理解できないことがあったり、誰かと意見が対立したときは、何か不必要な分類をしていないか考えてみてもいいかもしれません。
今回のお話、正直まだ自分の言いたいことをまとめきれてなくて、長ったらしい文章になって申し訳ないです。いったんアウトプットして頭をリセットしたくて投稿しました。更新頻度はなかなか上げられないですが、今後も投稿続けていきます。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
ソーシャルネットワークに見た理想のコミュニティの実現性
今回の仮説
最近、学生時代ぶりにソシャゲをやってるんですが、 以前書いたこちらの記事での仮説、案外的を射ていたかもと思えてきたので今回記事にしてみることにしました。
今回の仮説は
SNS上の誹謗中傷に対して取るべき対策方針は、
誹謗中傷そのものを抑制することよりも
常に誹謗中傷からの逃げ場所を確保すること
が重要なのではないか、というものです。
今回は僕が現在参加しているソシャゲのコミュニティを例に挙げつつ、 SNS上の誹謗中傷にどう対応していけばいいか考えていきたいと思います。
以前書いた記事の概要
今回の記事のもとになった記事の仮説について概要を説明しておきます。
ソーシャルネットワークとは簡単に言うとインターネット上の交流の場(コミュニティ)のことです。 インターネット=仮想空間上というのは、現実と異なり物理的な制限を受けません。
そのため、現実の学校や職場のようにある程度固定の人間関係で過ごすことを強いられることなく、比較的容易にコミュティの出入りや新たなコミュニティの立ち上げが可能です。
この特徴により、ソーシャルネットワークは集団内で居場所を失った人の絶対的逃げ場所になりうるのではないか、と考えたのでした。
詳しくは元の記事をご参照いただければと思います。
ソシャゲに見た理想的なコミュニティ
先ほど説明した仮説ですが、僕が現在プレイしているソシャゲのコミュニティではこれが成り立っているように思うのです。
僕はゲーム内で任意に作成できるチームの一つに属しており、このチームで協力してクエストクリアしたり、チーム同士でランキングを競ったりしています。
このチームの所属移動が、ペナルティはあるものの自分のタイミングで自由に行うことができ、チームという集団の形を取りつつも流動的で柔軟性が保たれていることに魅力を感じています。
うちのチームはチーム戦の参加も自由でノルマのようなものもなく、のんびりやっています。 そのため、もっとランキング上位を目指したいとチームを去る人もいます。 自分に合わなければ簡単にコミュニティから抜けられるのも、ネット上ならではだと思います。
一方で、別チームでノルマについていけず除名されてしまい、うちのチームに移ってくる人もいます。 そういった別のチームで居場所を失ってしまった人の受け皿にもなっています。
自分の好みに合ったコミュニティを求めて移動するのも、気に入ったコミュニティに居続けることも自分で選んでいくことができます。 僕の今のチームものんびりやりたい人が集まりやすくて、とても居心地がいいです。
もちろんゲーム仕様としての制約は受けますが、仮想空間上なので理論上はどうとでも仕組みは変えていけるはずです。 この環境に僕は理想的なコミュニティを築き上げる可能性を見たのでした。
逃げ場所の確保の重要性
少し前にスクウェア・エニックスのオンラインゲーム「ファイナルファンタジー(FF)14」の規約改定にて、プレー時の禁止事項に具体例を挙げたことが多くの人から絶賛され話題になりました。
実際の規約も読んでみましたが、同ゲームのプレイヤーでなくともわかるように、丁寧かつできるだけ網羅的に書かれていてすごく好感の持てる内容でした。
そして、この規約内容を多くの人が支持したということは、それだけ多くの人がオンライン上の誹謗中傷を問題視しているということでもあります。
多くの人の中で誹謗中傷はよくないという共通認識があるのに、ネット上の誹謗中傷は一向になくなっていないのです。
これは誹謗中傷の抑制には限界があることを示していると思います。 こちらの記事でもお話ししましたが、人間は他者を攻撃したいという欲求を本能的に持っていると思われます。
いくら規約や罰則を設けようとも、自分の中にある本能的欲求を常に理性で抑え続けるなんてできないですよね。僕だって無理です。
そこでやはり重要になってくるのは、いかに誹謗中傷からの逃げ場所を確保するかなのではないでしょうか。 もし誹謗中傷にさらされたとしても、その攻撃の届かない場所に逃げ出すことさえできれば、どこにも居場所がないというどん詰まりの状態は回避できると僕は思うのです。
例えばですが、コミュニティ内でユーザが誹謗中傷を受けたと判断したら、加害者と被害者が接触できないようにコミュニティを分けます。 これを繰り返していけば、自分に危害を加える人のいないコミュニティを作れたりしないでしょうか。
この方法がうまくいくのかは置いておいて、このように考えた理想のコミュニティを仕組みとして提供できうるのがソーシャルネットワークなのだと思います。 この考え自体は現実でも適用できることだと思います。
どうしようもないという心理状態より、難しいが可能性はゼロじゃないという気持ちでいられるほうがずっと楽だと思います。
この考えをもとに何かコミュニティを立ち上げようなんて今のところ思ってないですが、理想のコミュニティは理論上は作れるはずとでも感じていただけたら嬉しいです。
今回は以上です。
お読みいただいた方、ありがとうございました。
変えるべきは人ではなく仕組み
はじめに
この間、仕事で一歩間違えれば大事になりかねないミスをしてしまいました。 気づいてすぐに上司に報告して事なきを得たのですが、落ち着いてからふと思うことがありました。
「なぜすぐに報告することができたのだろう。」
実はこのミスはバレない可能性もありました。 報告すれば怒られるかもしれないし、評価が下がってしまうことも考えられます。 目先のリスクを考えれば報告しないで黙っておくということも選択肢になってしまうはずです。
それでも僕がすぐに報告することができたのは、僕にとって報告することのリスクが低かったからだと思います。 実際、気をつけようねと念を押されはしましたが、叱責されることもなく、むしろすぐに報告したことをほめられました。
もちろん、反省の気持ちもありますし、やっちゃったなあと落ち込みもしましたけどね..。
このように通常言いづらいことの発言しやすさを心理的安全性といいます。 僕がミスを隠すことなくすぐに上司に報告できたのは、「心理的安全性が高かったから」ということができます。
今回はミスで落ち込んだ気持ちの落としどころという意味も込めて、心理的安全性について僕の意見を含めて紹介したいと思います。
今回の仮説
今回の仮説は
心理的安全性の定義
まずは「心理的安全性」という言葉の意味について、もう少し説明しておきます。
「心理的安全性」とは、この言葉を提唱したエドモンドソン教授によると「このチーム内では、対人関係上のリスクをとったとしても安心できるという共通の思い」であると定義されています。
僕なりにかみ砕いて説明すると、メンバー間で発言する際に、「こんなことを言ったら嫌われるかも」「無知だと思われて恥をかくかも」というような不安を覚えることなく安心して発言できる心理状態のことです。 要は「怖くて言いたいことが言えない」の原因を取り除きましょうねというのが目的のスローガンなのです。
この心理的安全性が低い状態だと、ミスをしても報告できなかったり、空気を読んで批判的な意見が言えなくなったりします。 結果として、ミスをしても言えないために対応が遅れがちで、チームのパフォーマンスが下がったり、無難な意見しか出せないために変化に適応する柔軟性が失われてしまいます。
逆にいえば、心理的安全性が高い状態であればチームのパフォーマンス向上や改革・改善が起きやすい組織が実現できるということになります。 そのため、心理的安全性を確保することは大事だよねと昨今言われているわけです。
人に期待するから人を責めてしまう
心理的安全性の意味については何となくわかっていただけたでしょうか。 この心理的安全性を高めましょうと言われているのは、もちろん現状これが低いからなんですが、なぜ低いのでしょうか。
ここからは僕の考えですが、心理的安全性の低さの原因は人間に期待しているからだと僕は考えています。
例えば、怒られてしまうからミスを報告できない場合、報告できない原因である「怒られる可能性」が心理的安全性を下げている原因ですよね。 そして、ミスに対して怒ってしまう原因はその人がミスをしないことを期待しているからなのではないでしょうか。
他人のミスを怒る人と怒らない人の違いって、人がミスをすることをあってはならないと思うか、ミスして当然と思うかの違いなんだと思います。 ミスを怒らない人にとって、ミスすることは起こりうる可能性の一つに過ぎないのです。
人がミスをしないことを期待し、人が自分に異を唱えないことを期待し、人が自分の思い通り動くことを期待する。 期待されれば、人はその思いに無理にでも応えたくなる。 これこそが心理的安全性を下げている原因なのではないでしょうか。
変えるべきは人ではなく仕組み
心理的安全性を下げる原因を仮定したところで、では心理的安全性を上げるためにどうすればよいかについて考えてみたいと思います。
前回の記事でお話ししましたが、人はリスクを避けるために未来を予測しようと進化してきた可能性があるので、こういう未来になるだろうと期待してしまうことは、人間の本能であって仕方のないことだと思います。
そこで「期待すること」自体をやめるのではなく、「期待する対象」を変えることが解決策なのではないかと僕は考えました。
そして、人に替わる期待の対象こそが「仕組み」だと考えています。
人為的ミスが発生して問題になったのであれば、ミスをカバーできる体制や仕組みが整っていなかったと捉えることができます。 仕組みを責めても誰も傷つかないし、改善すべき対象も明白です。
そもそも人類文明の発展そのものが、「いかに人に頼らないか」を指針に進んでいます。 手作業の機械化も、手書きの記録の電子化も、人に替わって法が人を裁くのも、すべては人から仕組みに期待の対象を変えた結果だといえます。
そう考えると、人に期待することがナンセンスなのは明らかですね。 人類の歴史が示している通り、我々人類は人より仕組みを変えていくことが効率的で確実であることが分かっているはずなのです。
人の仕事は機械に変えていくべきという話ではなく、問題の改善を人の意志の力ではなく機械や仕組みで解決すべきだよねということです。 僕も同じミスをしないように常に意識するのではなく、そもそもそのミスが発生しえない仕組みを作れないか考えています。
この考えが組織に浸透すれば、心理的安全性は自ずと上がっていくのではないでしょうか。 (どうやって浸透させるかは置いといて..)
もしここまで読んで納得していただけたなら、他者を受け入れるため、そして自分を守るための考え方として、頭の片隅に置いていただけると嬉しいです。
以上です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
未来があるから思考できる
はじめに
お久しぶりです。 全然更新できてなくてすみません。
正直に言うとモチベーションが下がってました。 理性でやらなきゃとは思ってるのに、考えようとしても考えられないという感じでした。
しかし、先日買い物のために少し遠出をしたのですが、久しぶりに乗った電車での移動中、急に思考が捗りまして本記事を書くに至りました。
今回の仮説
今回の仮説は
今回の話の流れとしては三段論法*1のようなイメージで書いていきたいと思います。
不確定な未来がストレスを生む
こちらの記事では、電気ショックを用いて不確実性(先行きの不透明さ)とストレスの関係を調べる実験が紹介されています。
この実験では被験者ごとにさまざまなパターンのタイミングで電気ショックを流し、ストレスレベルの変化を計測しました。 電流を流すパターンには完全無作為なものもあれば、経験を積むうちに予測可能なものもあります。
結果として、電気ショックを受けるか受けないか確実にわかっている場合より、電気ショックを受けるかどうかわからない場合のほうが、はるかにストレスレベルが高いという事実が判明しました。
この実験は、人間にとって不確実性がいかに大きなストレスであるかを裏付けるものとなりました。
続けて、不確実性とストレスの関係に関するこちらの記事を紹介します。
狩猟採集民族であるイヌイットの暮らしを長期的に調査したところ、彼らは未来に目を向けずに今に注意を向けているのだそうです。 彼らが長期的な未来に目を向けて行動を決めることはありません。
そんな彼らの中には鬱病患者がほぼいないのだそうです。
狩猟採集民の生活は、男は狩り、女は子供の世話と木の実採集、そして夜には獲物と木の実を分けあって食べるというサイクルを延々と繰り返します。 10年、20年先の未来に目を向け保険加入や貯蓄をするような思考は存在しません。
つまり、狩猟採集民はそもそも未来という時間感覚がなく、未来への不安が募ることもないのです。 もはや、未来そのものがストレスと言ってもいいのかもしれません。
このように不確実性が人間に与えるストレスは凄まじく、不確定な未来を認識することがストレスを生んでいるといえます。
ストレスが思考力を高める
先ほど紹介した記事の実験結果の話に戻りますが、こちらの実験では不確実性とストレスの関係を示したほか、ストレスのレベルが高い被験者ほど電気ショックを受けるタイミングを予測する精度が高かったという結果も出ています。
これはストレスによって被験者の思考力(予測力)が向上したということになります。 ストレスが人間にとって有利になるように作用したのです。
もちろん、ストレスが過剰にかかると心身ともに悪影響がありますので、あくまで適度な量での話だと思います。
以前僕が通っていた精神科のお医者さんがおっしゃっていたのですが、鬱病とは脳の回転にストップがかかった状態のことなのだそうです。
あまりにストレスがかかって思考を巡らせすぎると、「これ以上はやめて!」と脳がストップをかけてくる機能が人間には備わっているのかもしれないですね。
未来が思考力を生む
ここまでの話から下記2点
- 不確定な未来の認知がストレスを生む
- ストレスが思考力を向上させる
人間は先行きが不確定であることを認識すると不安(=ストレス)を覚えます。 この不確実性は生存競争においてリスクそのものです。 そしてその不確実性をなくすために、人間は未来を予測しようとし、結果として思考力が向上していったのではないでしょうか。
こう考えると、未来の認知がストレスとなり、ストレスが思考力を向上させるという現象にも、もっともらしい説明がつくのではと思います。
ストレスがないと思考できない
今回は未来の認知とストレス、思考との関係について考えてみました。 今回の説明だけで、仮説が正しいというのはあまりに証拠不十分だとは思いますが、考えとしては面白いかなと思って書いてみました。
僕の場合も、普段の在宅勤務で自宅周辺で完結する生活サイクルから抜け出して、電車に乗って買い物に出かけた途端、久しぶりに考え事が捗りました。 逆に言えば不確実性を認知しないと思考することができないということなのかもしれません。
もしかしたら在宅勤務だと仕事が捗らないのも、慣れた場所で不確定要素である他人もいない環境で、不確実性を認知できないからなのでしょうか。 これは都合よく捉えすぎでしょうか笑。
ただ、先のことを考えるほどストレスが溜まる、ストレス(刺激といったほうがいいか?)がないと思考できないという意識を持っておくと、ストレスが溜まったり無気力になったときに、その対処法を考えるうえでの指針にはなるかなと思います。
今後も更新頻度は低いかもしれませんが、自分が面白いと思ったことを伝えていけたらなと思います。
今回考えたことは以上です。
読んでくださった方、ありがとうございました。
*1:AならばBかつBならばC、ならばAならばCであるという証明法 https://tap-biz.jp/lifestyle/trivia/1001604
「かわいい」は補い合うためにある
はじめに
先日、一緒に暮らしている恋人が誤って洗濯バサミをまとめていたカゴをひっくり返してしまいした。 いじけた風になりながら拾っている彼女を見て、僕は「かわいいな」と思いながら、拾うのを手伝いました。
このとき、ふと思うことがありました。
もし自分に余裕がない時だったら、はたして「かわいい」なんて思っただろうか。
手伝うどころか、イラついてしまうのではないか。
このことから今回の仮説を思いつきました。 今回は「かわいい」とは何かについて考えてみたいと思います。
今回の仮説
今回の仮説は「かわいい」という感情は、
余裕のある個体が支援の必要な個体を認識し手助けすることで、
「かわいい」の役割
僕が調べたかぎり、「かわいい」という感情が何なのかは、まだ研究途上にあるようでした。 ただ、何をかわいいと感じるかは個人差や状況にも左右されるものの、かわいいと感じたときの心情や誘発行動には、傾向があるようです。
まず、「かわいい」は”快”の感情であり、そばに置きたい、見つめていたいという接近動機付けを伴い、世話したい、手助けしたいというような社会的交流を促進する効果があるそうです。
「かわいい」という感情は常に自分以外の何かに向けらるものであることから、他者との関わり合い、集団生活上で発生した感情である可能性が考えられます。
また、世話したい、手助けしたいなどの他者を支援したいという欲求を誘発していることから、「かわいい」の対象を支援すべき存在と認識していることがわかります。
このことから、助けが必要な個体をと認識し、支援することが「かわいい」の役割なのではないかという仮説が浮かびます。
あかちゃんや小動物のような比較的弱い立場のものに限らず、「かわいい」を見出すことができるのは、「手助けが必要かどうか」で判断しているからと考えると説明がつくのではないかと思います。
「かわいい」の判定基準
では、どうやって「支援の必要な個体」を見分けているのでしょうか。 ここからはわりと僕個人の考えですが、僕が思うにそれは「不完全さ」にあるのではないかと考えています。
例えば視覚的な「かわいい」でいうと、人は丸っこいものをかわいいと感じる傾向があるそうです。
あかちゃんや小動物、キャラクターなど確かに一般的にかわいいとされるものには、丸っこいものが多いように思います。 ただ、「丸」よりも、「っこい」のほうが重要なんじゃないかと僕は考えています。
あかちゃんの顔は丸っこいですが、完全な真円・球体ではありません。 僕個人の感覚ですが、完全な丸にはどちらかというと「きれい」とか「美しい」という感覚を抱きます。
この完全な丸の基準からのずれを不完全さとして認識しているのではないでしょうか。 かわいい柄やファッションだって、美しさの基準から少し崩すことでかわいさを生んでいるのかもしれません。
もちろん、何をもってして完全であるとするかは難しいですが、それが「何をかわいいと思うか」に個人差を生んでいるとも言えます。
「かわいい」は他者を思いやる感情
人間は元来楽をしたがる傾向があります。 赤ちゃんは美人(左右対称な)顔を好む傾向がありますが、それは左右非対称のものよりも視覚情報が単純になるため、脳に負担がかからないからとされています。
この左右対象なものを好む傾向は大人になってからも続きます。 しかし、不完全なものを好む「かわいい」は、この趣向に背いていることになります。 他人の手助けや世話をして、わざわざ面倒な道を選ぼうとする感情に見えます。
しかし、そうまでして他者と関わろうとするのは、人間が集団を形成することで繁栄してきたからなのだと思います。 そもそも「かわいい」の語源は「かわいそう」の意味の「顔映ゆし(かほはゆし)」であるとされています。
「かわいい」とは、他人に同情し、誰かのために何かしてあげたいという思いやりの感情と言えるかもしれません。 そう考えると「かわいい」ってなかなか素敵な感情だなと思います。
また、僕が恋人に対して、もし余裕がないときだとかわいいと思わないかもしれないと感じたように、自分に余裕があって初めて「かわいい」は成立するのだと思います。 もしかわいいと思えるものがないときは、まだ自分に余裕がないので自分のことに専念すべきときなのかもしれないですね。
以上が僕が考えた「かわいい」についてでした。 あんまり上手くまとめられませんでしたが、ここまで考えたという区切りとして記事にさせていただきました。
それでは、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。